僕のアイドル
目を開けると、首筋にじっとりと滲む汗と窓から差し込む光に、思わず眉をひそめる。今は何時と手を伸ばしてスマホを探すけれど、手のひらには固く冷たい木の感触だけ。半分だけ開いたカーテンから、うるさいくらいの朝日が主張しているので、きっともうそろそろ起きる時間なんだろう。スマホを探すのを諦めて、沈むベッドを押し込む。
どこをどう曲げても痛むボロボロの上半身と、重たい腰をなんとか持ち上げて、僕は、この奇妙な部屋に明かりを付けてしまった。
まずおかしいのは壁だ。女の人の写真がいっぱい。大小さまざまなポスターやらカードのようなものまで、壁を埋め尽くしている。彼女の日めくりカレンダーまである。窓の反対側の壁に貼られた特大のポスターに向き合って、僕は彼女を観察した。
この子は誰だろう。どこかで見たことがある気もするけれど…。
髪の毛は艷やかな黒、でも髪の毛を掬うように手を添えた写真では内側だけ透ける金になっているのがわかる。肩にかかるくらいの長さで、外向きにはねさせたり、無理やり後ろでくくったり。前髪は薄く、ぎりぎり目に入らないくらいに切り揃えられている。細く形のいい眉に、すっとまっすぐな鼻筋。綺麗に扇を描いて広がった睫毛の下で、青みがかったグレーの瞳がこちらを見つめている。つんと上を向いた唇の山はあざとく媚びて、三白眼のつり目は男を媚びさせる。アメとムチを共存させたような不思議な魅力をもつ女の子であった。
特大ポスターの右下の部分には、いつもありがとう、というメッセージとともにサインがかかれていた。
この部屋はどこなんだろう。僕の部屋と間取りは似ているけれど、壁を覆うポスターのせいでえらく雰囲気が違う。それになんだか、とても、汚い。
そう、この部屋は散らかっている。僕はとても綺麗好きで家中の掃除を引き受けている。髪の毛一本見逃さないし、ほんの少しの鏡の曇りも許さない。なのにこの部屋ときたら、机の上は女の人の雑誌やら漫画やらで埋め尽くされていて、床にも使い終わったティッシュや皺になった洋服が落ちている。これでは勉強どころか、普通の生活も送れない。
僕は仕方なく、片付けを始めた。みしみしと悲鳴を上げる腰を折り曲げて、床に散らばったティッシュをまとめて捨て、洋服を畳み、漫画や雑誌を揃えて本棚へしまうと、少しはすっきりした。机の上に埋もれていた財布に、僕は見覚えがあった。
少し躊躇って、でももう部屋も片付けてしまったし、と言い訳して、財布を開く。千円札が二枚と、小銭が三百二十四円と、おみくじに付いてくる、金運アップの金色の蛙。それと、高校の学生証と、一枚の女の子のカード。
間違いない。学生証を見ても、間違いなく隼人の財布だ。幼馴染の親友で、同じ高校に通っている。
そうだ、この女の子、ポスターの子と一緒だ。この間、隼人が教えてくれたんだった。それで、カードを一枚くれたんだ。
「明良、この子、可愛くねえ?吉乃ちゃんっていって、デビューしたばっかりなんだけど、もうハマっちゃいそうでさ。お前にも一枚あげるよ、だから今度一緒にライブ行こうぜえ」
鼻の下を伸ばして、このカードを僕に。
…くれたんじゃなかったっけ。どうして隼人の財布に入っているんだろう。ここは、隼人の部屋なのか?
チリリリリ、と何かが鳴った。ベッドの下からだ。痛む身体に鞭打って、ホコリまみれのそこから、目覚まし音を響かせるスマホを掴み取る。これも、僕のではないから、きっと隼人のものだろう。あとで掃除機もかけてあげよう。隼人に、掃除はこまめにしなくちゃだめだと教えてあげなくちゃ。
朝の十時に設定された目覚ましを切る。薄手のカーテンは閉まっているので外の様子はわからないが、その奥に膨らむ光は昼の賑やかな空気をまとい始めている。
スマホを開くと、おびただしい量の通知が溜まっていた。ちらりと見ると、画面に表示される緑色の通知は、隼人からと書かれている。全、七百二十三件。
てっきり隼人のスマホかと思っていたけれど、違うみたいだ。じゃあ一体、誰の?ロックがかかっていないようだったので、良くないとは思いつつ、興味本位で開く。持ち主には悪いが、既読を付けてしまった。
「おい、大丈夫か?」
「おばさんから聞いたけど…ごめんな、何も気づいてやれなくて」
「一人で、辛かったよな」
「財布のことなら別にもう怒ってないし、お互い時効だろ?カードだって悪かったよ。あのときはお前、興味なさそうだっただろ」
「俺、また会いたいよ」
「お前までいなくなるなんてやめろよ」
「吉乃ちゃんも、そんなこと望んでないと思う」
「なあ、明良、返事しろよ」
ずっと同じことばかり書かれている。吉乃ちゃん?って、この女の子か。明良、は、僕のことだよな。ということは、このスマホは僕のものか?でも、機種が違うんだけれど。
この部屋は、何かおかしい。片付けがなっていないし、アイドルのポスターで壁が埋め尽くされているし、吉乃ちゃんの日めくりカレンダーにかかれた年月は、僕が覚えているのよりも四年も進んでいる。
スマホから明るい音楽が流れ出して、アイドルみたいな女の子の歌声が聴こえる。通知をタップすると、吉乃ファンクラブアプリというのが起動された。
ポスターの女の子が上目遣いで微笑むサイトの最新のお知らせ欄には、
「吉乃の遺書が見つかりました。ファンの皆様へは、日頃励ましていただいたことへの大きな感謝と、途中で逃げ出してしまったことへの申し訳ない気持ちでいっぱいです、旅立つ吉乃をどうかお許しください、今までたくさんありがとう、と遺されておりました。吉乃には、熱心に応援してくださるファンの皆様の存在が大きな支えになっていたと思います。どうか後追いなどはおやめください」
と記されていた。
訳もわからず、ただ頬を流れる涙を、僕は止めることができなかった。
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