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匂いが似ている

 お風呂からあがったあとに外に出るのは、なんだか悪いことをしているみたいな、それでいてちょっとわくわくするような不思議な気分だ。

 家族で銭湯に行くと、帰りの車に乗り込む直前にいつもそんな気持ちだった。湯冷めしないようにね、なんて弟の手を引きながらお母さんが言って、七つ年下のまだ小さかった弟は眠たくなってぐずっていた。私はお姉さんだから、ひとりで立っていられた。夜の闇は怖かったけれど、髪の毛がまだ少し湿ったまま冷たい風に吹かれるのは気持ちが良かった。

 駅近の小さなアパートから家を目指すこの時間は、やっぱりちょっと変な気持ちになる。夜は風が冷たくて、でも、気を付けてね、と優しく抱きしめられたあとの体はむしろ暑いくらいで、こんなんじゃ家族に会えないぞ、と頬を叩く。

 蓮さんはたぶん、浮気をしている。今までなら泊まっていってと引き止めてくれたのに、今じゃすんなり家に帰してくれる。いつもふかしていた煙草の匂いが、最近急に薄まった。私たちはそろそろ別れたほうがいいのかもしれない。でも、蓮さんのことはこんなにも好きだ。

 街灯がぽつぽつと立っている。四階建ての、小さなマンションが見えてくる。四人家族だった私たちの家だ。

 ただいま、と、真っ暗な家の扉を開く。二つの鍵と一番上のチェーンを閉めて、電気をつける。

 しんと静まり返って、冷たい。この部屋は死の匂いがする。

 みんないなくなってしまった。父と弟が順番に死んで、母は男と消えた。それからずっと、この死の匂いがする部屋にひとりで住んでいる。ひとりぼっちの私を受け入れてくれたのが蓮さんだった。

 三人がけのソファの上で寛いで、蓮さんにラインを送る。

「今日はありがとう。来週も会おうね」

既読はつかない。今ごろ他の女の子と、私のメッセージを見て笑っているのだろうか。それとも、私のメッセージなんて目にも入らないくらい近く、寄り添っているだろうか。

 あるいは、蓮さんは浮気なんてしていないかもしれない。ただ単に、私といるのが嫌になったのかも。でも自分からはそう言い出せないから、私から言うのを待っているのかもしれない。

 結局うちの男たちは、と母は弟の葬式で言った。

 人のためなんて言いながら、自分が一番大事だったのよ。人に合わせるのは楽だもの。それで、優しい自分に酔いながら死んでいったんだわ。でも本当は、ただ弱かっただけなのよ。

 母は赤い目をして呟いた。眉根を寄せて、大きく歪んだ口元が小刻みに震える。

 弱い男たちだったの。

 スマホがヴヴヴと鳴って、蓮さんから返信がくる。やっぱりな、と思いつつも、気持ちが萎んでいく。お風呂あがりの高揚感は、もうすっかり消えていた。

「来週はちょっと忙しくて厳しいかもしれない。その次にしよう」

 仏壇から漂う灰や煙の香りと、そこに供えたお菓子の甘い香りが混ざって、私はそれを、死の匂いだと思う。死の匂いは少し、蓮さんが吸っていた煙草の匂いに似ている。

 私たちはそれまで、ほとんど話したことがなかった。弟が死んで一週間ほど仕事を休んだ私に、彼が初めて声をかけてくれた。詳しくは聞いてこなかったけれど、私が明るい気持ちになるようにいろんなところへ連れて行ってくれた。夜は家族のいる家で過ごしたいという私に、毎度、本当は泊まってほしいのに、と言いつつも送り出してくれた。

 こんなに優しい人は他にいないと思う。たとえその優しさが自分のための優しさだったとしても、私は彼に救われたし、感謝している。弱くたっていい。それなら今度は私が支えてあげたいのに。

 生乾きの髪の毛からは、蓮さんの家のシャンプーがむせるほど漂う。死の匂いを断ち切るように、私はその香りを吸い込む。

「わかった。じゃあ、楽しみにしてる」

 ひとりぼっちの夜でも、蓮さんが生きているから耐えられる。彼がもう私を好きでなくても、私は彼を本当に好きだ。死の匂いのするこの部屋で、私は毎晩蓮さんを想う。

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