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落としもの

 黄色い葉ももうすっかり落ちて裸になったイチョウの木の下を、紺色の学生服がすたすたと帰っていく。その足元はふかふかの黄色い絨毯で、ところどころに銀杏の実が、あるものは潰れて、あるものは綺麗な丸い形が残って落ちている。セーラー服の女生徒は、それらを器用に避けながら楽しげに帰っていく。

 来る途中に買った猿田彦のドリップももうほとんど冷めてしまっている。渋みの増した珈琲が喉をつるりと滑る。

 腕時計は午後五時の五分前。影の伸び始めた時間帯に、鮮やかな黄色が足元を舞う。

 紺地に銀ボタンの学生服は私のいた頃から変わらない。イチョウの模様の校章が彫られたボタンが、胸元で上品に鈍く光る。女生徒は色とりどりのカーディガンを着ているが、その下はやはり紺色のセーラー服。紺色の線の入った襟に校章を付けている。

 ひとりの学生が、何かを落とす。脇に本を抱えている。ひらひらと細長いものが舞って、黄色の絨毯の上に落ちる。私があっと立ち上がる前に、彼女がそれを拾う。

「落としましたよ」

学生はちらっと振り向いて、それから彼女に気がついて礼を言った。

 彼女は学生に栞を手渡してから、私の方へとゆっくりと歩いてくる。私は珈琲を飲み干して立ち上がる。

「このイチョウ綺麗ね。あなたにあげる」

「ああ、ありがとう」

 栞と一緒に拾ったのだろう。乾燥した、でも少し柔らかい葉を私にくれる。

「懐かしいわ」

「そうだな」

 彼女は落ち着いた茶色のコートに白いパンツを履いていた。眉毛の辺りで切り揃えられていた前髪も顎の下まで伸びて、おでこを出していた。かかとの低いパンプスを履いているから、あの頃よりも私と身長差が開いている。

「元気そうで何より」

そう言って私を見上げる目だけはあの頃と何も変わっていないように見えた。

 私たちは銀杏並木をゆっくりと歩く。上を見上げればぐんと強く太い枝と薄青く高い空。

「ごめんね」

彼女は言う。

「何も言わなくて」

私は何も答えられない。足元の臭い銀杏を踏まないように、ただ黙って歩いている。

「言えなかったんだ。山下くんには、どうしても」

 彼女は私の左側を、少し離れて歩く。ときどき手が触れて心がざわついたのは、昔の記憶だ。

「山下くんのこと、好きだったから」

「坂野さん」

「そうだ山下くん、第二ボタン誰かにあげた?」

あげた。確か、後輩の女の子だ。でももう、顔も名前も思い出せない。

「…あげてるよね、山下くん、もてたもんな」

彼女は少し拗ねたような声を出した。違う、私がボタンをもらってほしかったのはあの子じゃない。私はずっと変わらない。大切なことは、うまく言葉にできない。

「私、予約しておいたのに。まあでも、一緒に卒業できなかったから仕方ないな」

「…ごめん」

「いいの」

 彼女はぱっと振り向いた。気がつくと銀杏並木は終わっていた。コンクリートの地面が顔を出している。

「また会えてよかった。どうか元気で」

 眉毛が綺麗に描かれている。目尻に皺が増えた気がする。口紅の色が、顔の色に似合っている。あの頃とは全然違うけれど、それは間違いなく彼女の笑顔だった。

「そちらこそ、元気で」

 駅のほうへ歩き出す彼女を、私は静かに見守った。

 昔の私たちのような、男女の学生たちが並んで私を追い越す。手の中で、萎れたイチョウがかさりと音を立てた。彼女は一度も振り返らずに、人混みに吸い込まれていく。右手を開くと、黄色い葉がはらはらと、コンクリートに落ちていった。

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