見出し画像

静かな場所

 イヤフォンが壊れたらしい。長く使っていたブルートゥースのイヤフォン。別に愛用していたとかではないから、壊れたな、というだけだ。残るのは静寂。

 音楽のない電車は学校の廊下みたいだ。細長くて、あちこちに広告が貼ってあって、人がうじゃうじゃいる。別にうるさくはないのに、人が多いせいでうるさいなと錯覚する。朝礼に行くとき、みんなは背の順で廊下に整列してから、学級委員についていく。ぱらぱらと。ぞろぞろと。

 他校の文化祭に一人で行ったことを思い出す。建て替えたばかりらしい新しい校舎は電車並みに明るくて、知らない人がうじゃうじゃいて、少し心細い。どこを見て歩いたらいいかわからずに、足早に、ただなんとなく時間を潰しているだけだというのに、目的地へと一目散に歩いているふりをする。

 あのときも音楽をかけていた。音楽、といっても、文化祭でナツメがギターを弾いた、下手くそな素人バンドの音楽だった。

 電車では歩くことができないから、余計に居場所がない。ぼんやりとする以外に何ができようか。知らない学校の朝礼前のような錯覚に陥る。この人たちはみんな、もう少ししたら学級委員が行くべき場所へと連れて行ってくれる、だるいとかもうお腹減ったよとか朝練終わりだから臭いかも知んないわとか、そうやって口々に言いながら、平和の場所へと連れて行ってもらえる。私だけだ。紛れ込んで、浮遊している。何もできずに、目的地のある集団を羨ましげに見つめている。

 イヤフォンが壊れたことをナツメに言おうとして、何度もやめた。ナツメとはもう連絡をとっていない。私の既読無視で終わったはずだ。心の底からナツメを求めているのに指が動かなくて、それで私は、ナツメを恨んでしまう。

 やり場のない視線を仕方なくスマートフォンに落として、ナツメのアイコンを眺める。派手な青いギターを抱きしめるナツメ。私に、観に来てね、絶対だよと念を押したナツメ。一緒に行く人もいないのに仕方なく観に行ってあげたら、ステージの上から大きく手を振ったナツメ。下手くそなくせに、誕生日には弾き語りで祝ってくれたナツメ。ナツメのギターはうるさくて、がやがやして、頭に響いて、こびりつく。一生忘れられないじゃないの、と私は悲しく思う。ナツメはもう私のことが嫌いなのに、私はいつまで経ってもナツメに取り憑かれている。

 音楽のない電車は、人と人の擦れる音や囁き声や誰かの音漏れや、電車の揺れる音やアナウンスやほんの少し開いた窓から聞こえるたくさんの音でうるさい。うるさいけど、私は静かだと思う。音楽でないもので心を満たせるなんて久しぶりだ。ナツメでないもので心が満ちるなんて。

 ナツメのアイコンを眺めている。ナツメ、と変えていた名前を、ふと、本人の設定した名前に戻してみる。夏目柊也。私の思い描くナツメには漢字が似合わなくて、ふっと笑う。笑ったついでにブロックした。こんな人、知らないもん。

 壊れたな、と思う。思うだけだ。どうでもいいことを、いつでも、ふらっと送りあえる関係を壊したのはナツメのほうだったろう。完全に壊し尽くしたのは私だ。もう完全に壊れてしまった。残るのは静寂。

 私の微かな笑い声も、静寂に溶けていく。

最後まで読んでくださってありがとうございます。励みになっています!