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明日地球が滅ぶなら

 家を出る前、莉緒が手を掴んで言った。

「もし、明日地球が滅ぶなら、何がしたい?」

忙しい朝に何を言い出すんだと軽く顔をしかめると、悲しそうに眉を下げて手の力を弱めた。だから僕は、溜め息を飲み込んでから答えた。

「特に、何もしたくないかな。行ってきます」

 あのとき莉緒はどんな顔をしていただろう。

 その日は一日大変だった。仕事が忙しくて、帰り際にチームの一人がひどいミスをしたので、みんなで残って補わねばならなかった。困ったときはお互い様だからとにこやかに、かつスピーディーに追加業務をこなして、家に帰ったのはぎりぎり日付けが変わらないころだった。

 扉を開けると家中真っ暗だった。莉緒は夜遅くまで起きて朝ぎりぎりまで寝ているひとだから、この時間に暗いのは珍しいことだった。朝は様子が変だったから、疲れて早く寝たのかもしれない。閉ざされた莉緒の部屋の扉から、光は漏れてこない。

 とりあえずシャワーを浴びようと思って洗面所に行くと、風呂の扉に猫の柄の付箋が貼ってあった。

「お風呂沸いてるよ。着替えは棚にあります。洗濯物は籠へ」

莉緒の字だ。棚を開けると確かに僕の着替えが置いてある。いきなりどうしたんだろう、と思っていると、風呂場に音楽が流れる。

「お風呂が沸きました」

なぜ、このタイミングで。そんな機能あったっけな。最近は風呂を沸かすのが面倒で湯船に浸かっていなかったから、ありがたく入ることにした。なんだかいい香りのする、白い入浴剤まで入っていた。温かくて気持ちが良かった。

 莉緒が用意してくれた着替えは僕が持っている中で一番古いパジャマだった。莉緒と一緒にいるときに買ったものだ。僕も莉緒も、もう買い物は一人のほうがいいということに気が付いていた。僕たちは出かけるとすぐに外で喧嘩を始めてしまう。

 リビングには莉緒が買い込んでいるお魚のソーセージの束と、また、同じ付箋。黒い猫が見せる腹だけ白くて、そこに文字が書けるようになっている付箋。

「お腹が空いていたら食べていいよ。レンジにミルクもある。今日は洗い物しなくても許す」

お言葉に甘えて、ホットミルクとお魚のソーセージを頂く。膜が張ったホットミルクは、ほんのり甘めだった。

 新婚のころを思い出す。莉緒はいつもホットミルクに少し砂糖を入れる。甘いものは正義なのよ、と笑う顔を、そういえばもう何年も見ていない。というより、家で顔を合わせること自体が少ない。お互い働いていて、家事も自分でやるし、話す内容もあまりない。

 体の芯からぽかぽかしてくる。久しぶりの、リラックスしたいい気持ちだ。心に余裕ができて、幸せだな、と思う。莉緒を側に感じる。側にいたいから結婚したのに、最近はなんて冷たかったんだろう。明日は早く帰って、今度は莉緒に楽をさせてやりたい。

 莉緒の部屋の扉に、ありがとう、おやすみと声をかけてから、僕も寝る。今日は体が休まって、睡眠薬を使わなくても眠れそうだ。

 暗い部屋の中で、ふと、僕は気付く。

 朝、俺が何もしたくないって言ったから、何もしないで済むようにしてくれたのか。なら、明日、地球は滅ぶのか?

 まさかな、と笑って、目を閉じる。体を抜けて、どこか遠い闇の中にすっと引き込まれるように、僕は眠りに落ちた。


「医師は、亡くなった妻に致死量の鎮静剤の入った液体を二人分渡したとして、殺人の疑いがかけられています。警察によると

『死にたい人の手伝いをしようと思った。遺書ももらっている』

と供述しており、

『なら、何もしなくていいよ。一緒にいこう』

などとかかれた遺書を提示しているとのことです。それでは、お天気です。」

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