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ばいばい、またね

 窓の外で、銀杏の葉が舞った。まだ青く柔らかい葉は、はらりはらりと飛んで、地面にそっと落ちた。

 そんなことは露知らず、手を繋いだカップルがその上を歩いていく。よく見ると、見たことのある顔ぶれだった。あのふたり付き合っていたのか、なんて、ぼんやりと思う。

 放課後。教室の中は優しい黄色に染まる。

 木の匂い。暖かな、午後の匂い。

「誰かこの問題わかるまで解説してくれたら揚げ餅一本」

 女の子がひとり、教卓の前で参考書を掲げた。教室を見回して、にやりと笑う。

「それ、乗った」

 もうひとりの女の子が手を挙げて、黒板に向かう。白いチョークで数式を書き始めた。

 昨日の授業でやったところだった。結構、難しい。塾で先取りをしていなかったらついていけなかったと思う。

 黒板とノートを見比べて考え込んでいた女の子が、せんせぇ、わかりませぇん、と、甘い声をあげる。まだ序盤の、ここまではいいよね、と言われそうなところだった。

「はあ? なんでこんなとこからわかんないのよ」

「ちゃんと解説しないと揚げ餅なしだよ」

 ぴしゃりと言ってのける。先生役の子が、うげぇ、と呻いた。

「あのねえ…」

 説明はすごくわかりやすかった。本当によくわかっている子にしかできない、順序立てられた話し方。噛み砕いた言葉で、誰でも理解しやすいような。

 窓の外でまた、銀杏の葉が舞った。斜めに射し込む陽の光で、きらきらと光って見えた。空はまだほんのり青い。

「ん、さすがあたしの親友、やっぱわかりやすい」

「ほら揚げ餅買いに行くよ」

 女の子たちはばたばたと走って教室を出ていく。私はそれをぼんやりと眺めている。

 気怠げな午後だった。ちらりと時計を見る。それから、ノートを取り出して、さっきの説明をメモする。

 ふぅ、と息をつくと、静まり返った教室に響いた。いつの間にか教室には誰もいなくなっていた。

 さっきの女の子たちの、乱雑に置かれた鞄たち。がたがたに並んでいる机。ドアの閉まらない掃除ロッカー。いつもの教室。

 伏せた腕に頬をのせて、窓の外を眺める。気怠げな午後。きらきらとした青。教室の中は、優しく柔らかな黄色。

 楽しげな笑い声が、廊下から聞こえてくる。

 ドアががらがらとあいて、あの子たちが入ってきた。購買で売っている揚げ餅を抱えて。とっても、美味しそう。食べたことはないけれど。

朝日あさひさん」

 購買には入ったことすらない。外から見ると、賑やかで楽しそうではある。揚げ餅はたぶん人気商品だ。他に何が売っているのか、私は知らない。

 ひとりで行くのは寂しいから。

「朝日さーん」

「え」

 名前を呼ばれて顔をあげると、困ったような顔をしてふたりがこちらを見ていた。

「最後出るとき電気消しといてね」

「あ」

 はい、と言う前に、ふたりはドアをがらがらと開けて出ていく。短い靴下の後ろ側に、ひらひらしたリボンがついていた。私はまた、窓の外を眺める。

 はぁ、と息を吐くと、烏がかぁと鳴く。吐いたぶん、吸い込む。

 木の匂い。優しい、午後の匂い。みんなが帰ったあとの、静かな放課後。

「ばいばい、またね」

 今日も口に出せなかった言葉たちが、しんとした教室に響いた。誰にも届かずに消える。私は立ち上がる。

「ばいばい、またね」

 烏がかぁと答える。私は、ふ、と笑った。大丈夫だ、きっと明日こそは。

 道の端に散らばった、柔らかな銀杏の葉を拾い上げて、私は軽い足取りで家に帰る。見上げれば、もうすっかり太陽は傾いて、空がオレンジ色に染まっていた。

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