溢れ落ちた
さぁぁぁぁっと音がして、隣のミキが寝返りをうった。あたしはそれをじっと見ている。ミキは突然顔を大きくしかめて、ぱっと目を開けた。
「えっ今何時?」
しばらく目をぱちぱちさせてから、ミキが聞いた。
「三時くらいかな」
「三時って」
もちろん、朝の三時だ。カーテンの外はまだ真っ暗闇で、ふたつのベッドの間にデジタル時計が微かに光っている。
「ハルはいつから起きてたの」
「あたしもさっき起きたところだよ」
静かな夜に、あたしたちはなぜかぱっと目が覚めてしまった。真夏の高原の、山の上の清々しい夜だった。
「…行く?」
「うん」
ふたりは起き出して、はだけた浴衣の裾を直してから、バスタオルと髪ゴムと部屋の鍵を持ってそっと扉を開けた。
布団に入ったのは十時くらいだ。山登りをして、一旦お風呂に入って、温泉卓球を一時間もやって、また軽くお風呂に入って寝た。非日常のリズムにミキとふたりですごく興奮した。でもすっごく疲れたから、宿のご飯ももりもり食べたし、お風呂ではうとうとしちゃったし、布団に入ったら即寝だった。
ひんやりした廊下を、スリッパをぱたぱた言わせながら歩く。ぼろいねー、なんて言っていたエレベーターも、この時間に見ると趣があってむしろ良かった。誰もいない廊下はあたしたちのくすくすという笑い声でほんのり暖かくなる。
「うちら、なんで起きたんだろ」
「運命じゃん?」
ふたりで手を繋いで、お風呂へと続く道を行く。
寝る前に入ったときは常連さんみたいなおばさんやおばあさんで混んでいた大浴場は、今だけはふたりの貸し切りだった。髪の毛を仲良くお団子にして、あたしたちは露天風呂へ向かう。
「わあ…っ」
引き戸を開け放つと、そこには満点の星空が広がっていた。
「ミキ、すごいすごい」
「ハル、ほんとだね」
ちゃぷん、ちゃぷんとお湯に浸かって、ふたりは馬鹿みたいに口を大きく開けたまま、空を見上げた。
東京じゃ見たことない、明るい夜空だった。星たちは隙間なく光っていて、あたしたちはそのほとんどと初めましてだった。それまで、夜なんて、黒くて冷たい闇の塊だと思っていた。でも、暗い宇宙はよく見たら少しずつ違う黒で、星の密度が濃いところはひときわ明るくて、そうじゃないところはほんの少し暗かった。夜空だってうごめいていた。ときどき真っ黒の雲が流れてきて、あたしたちの星の前を通り過ぎていった。
知らないだけで、世界はこんなにも輝いている。動いている。光を分け合っている。想像もつかないスケールだけれど、静かな星の光はなんだかやさしく感じられる。
「あれがオリオン座じゃない?」
「え、オリオン座って冬じゃないの?」
「でもそんな感じに見えるよ」
温泉はとっても暖かかった。お風呂の縁にかけたミキの手はすごく冷たくて、だからあたしは暖まった手でそれを包み込んであげた。
「あ、流れ星」
「うそ!」
「あっほらまた!」
「今のはあたしも見えた!」
「お願いごと、した?」
「速すぎて無理!」
あたしの手もすぐに冷えてきて、ミキがぎゅっと握りしめる。冷たい手を重ねてあたしたちは夜空を見つめていた。
「あたしはね、お願いごとしたよ」
ミキが言う。ふたつの手はだんだん乾いてきて、とろっとした温泉を掬ってかける。
「あたしや、ハルや、みんなが、楽しくいられますように」
あたしも手をぎゅっと握り返して、くすっと笑う。温泉のお湯に濡れて暖かくて、柔らかくて、やさしい手のひら。
「仕方ないから、そのお願いはあたしが叶えてあげるよ」
「…うん!」
「あ、また流れ星」
「うそー!」
きゃっきゃと笑うあたしたちに、たくさんの星が降り注いだ。偽物かもしれないオリオン座も、きっと合っている大三角形も、名前も知らない小さな小さな光たちも、あたしたちの頭の上で静かに佇んでいた。
運命みたいな夜だった。眠たくなんてなかった。夢ではなかった。あたしたちは確かにふたりで明るい夜空を見たんだ。そこは山の上の寂れた旅館で、他には誰もいなかった。くすくすと響く笑い声と、並んだお団子頭と、重ねた手のひら。やさしさが溢れて流れ落ちた星空は、あたしたちをずぅっと繋いでくれるように思えた。
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