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好きだったものもの

 名前を呼ばれるのが嫌いだった。ハル、と呼ばれるのはなんというかとても、良くて、ふわっとする感じで、だから嫌いだった。ずっと、嫌いだった。

治也はるやくん」

 ん、と顔を傾けるとすずかが寝ていた。可愛いな、と思う自分に安堵する。まだ平気だ。まだ壊れていない。

 すずかが怖がるせいで常夜灯で寝るのにも慣れた。ぼんやりと浮かぶ黄色い灯りはなんとも平和で、安心感があって、それで落ち着いた。ほんとうはこれも、大嫌いだった。

 三人の関係を最初に壊したのは俺だったと思う。仲が良すぎて、楽しくって、完全に三人だけの世界があった。それが嫌だった。友情を壊すなら恋愛かな、と思っていろんな女と関係を持った。

 でも壊し尽くしたのは朋子ともこだ。朋子は孝仁たかひとが好きだった。目に見えて好きだった。でも諦めて、そうしたら変な後輩と付き合い始めた。盗聴器をしかけたり、孝仁のストーカーをしたり、明らかにやばいやつだった。でも馬鹿な朋子は気づいていなかったし、孝仁はお人好しで、「朋子が男を不安にさせるのはわかる」とか言って笑っていた。だから教えてやった。「そういう朋子をよく知ったような口調が後輩にとっては嫌なんだろ。どうせそれもどっかで聞かれてるぞ、気をつけろよ」

 孝仁の顔の歪む瞬間、すべてがスローに見えて、眉間のしわのひとつひとつ、唇の引きつった角度、目尻に浮かぶ色、鼻の穴の細かな動きとごくりと動いた喉仏が全部、全部美しく見えて、俺は人生で一番興奮した。終わりだ、と思った。美しい終わり方。もっといい人がいるよ、みたいな綺麗事の終わりではなくて、完全完璧な崩壊だった。朋子と孝仁の、そして俺たち三人の。

 常夜灯の細い灯りが終わりを待っている。丸くて網目の通った照明カバーを見て、小さいとき道路に落ちていた、粉々になった亀の甲羅と肉片を思い出す。亀の甲羅って、骨なんだよ。朋子が目を逸らして言った。さよなら、と孝仁がぽつりと言った。俺はじっと見ていた。

 目に見えるものは車に引かれただけで簡単に壊れてしまう。醜い終わり方をする。なら、目に見えないものはどうやって終わるんだろう。

「すずか」

 すずかは俺の最後の希望だった。可愛くて、愛おしくて、見ているだけで心がふわっとする。人生で一番好きで、一番、嫌いで。

 だから、一番美しい終わり方をすべきなんだ。

 死んだように眠る最後の女の子を、うっとりと見つめる四時。

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