見出し画像

海風

 ずっと、真面目に生きてきたはずだ。

 よく勉強して、大学院を出て就職して、学生時代からの恋人と籍を入れて子どもも授かった。残業や休日出勤の多い中、家では穏やかな父親として家族サービスもしてきたと思う。嫁は専業主婦だったが、休日は家事や育児を代わったりもした。当然だと言いたげな嫁も、何も知らずに無邪気に笑う子どもも、嫌いじゃなかった。ただ、俺は疲れ切っていた。真面目な良い父親を演じることに。

 だから、電車でいつも会う女子高生に連絡先を渡されたとき、俺はどうしたらいいかわからなかった。

 その子は短いスカートのセーラー服を着ていた。夏は白、冬は紺色で、鮮やかな青のマフラーをしていた。毎朝ひとりで同じドアの前にいて、手すりに捕まって立っていた。冬のマフラーが目立っていて、いつもいることに気が付いてから、三回目の冬だったのを覚えている。お爺さんの鞄の中身が散らばって、それを拾ってあげたとき、彼女は近づいてきて小さな紙を渡した。

「これ、落としましたよ」

なんだろうと思い開くとメールアドレスが書かれていて、俺は口をぽっかり開けてもう一度彼女を見た。

 彼女はもういなかった。

 次の朝、俺は彼女の定位置の少し隣に立って待った。一体何のつもりだろうと考えていたら眠れなくて、あくびをした。女子高生は乗ってくるなり、おはようございます、と笑った。

「メール、待ってたんですよ」

くすっと笑った化粧っ毛のない顔はとても可愛らしかった。それから、俺たちはメールを交わすようになった。

 女子校に通う高校三年生、十八歳。入試は終わっていて、春には都内の私立大学に入学することが決まっている。勉強は嫌いで、甘いものが好き。女子校では若いイケメンの先生がよくモテているけれど、自分はもう少し上の年齢の人がいいなと思っていたこと。できれば、真面目で優しくて、素敵なおじさんが良かったこと。毎朝電車で見かけて、春から違う電車になるからと思い、勇気を出したこと。こうしてメールで話すと、見た目より少しお茶目で、面白くてもっと惹かれているということ。

 朝起きると、今日も彼女に会えると思って嬉しくなった。疲れて家に帰ると、彼女からのメールがきていて癒やされた。電車で目を合わせて、ただ微笑みあった。彼女の素朴な笑顔を見るだけで、俺は何でもできる気がしていた。

 彼女は初め、「海風」と呼んで下さいと言った。後に知った本名は「風間海美」。海と風が含まれていて面白いでしょう、なんて、いたずらっぽく笑った。

 やがて、俺にはいつもの、海美には出会いの春が来た。彼女は電車に乗らなくなり、メールも減っていった。仕方のないことだと思った。若い頃は目の前のことでいっぱいいっぱいだろう。つかの間、楽しい時間を味わわせてもらっただけで十分だと。

 また、冬のことだった。しばらくきていなかったメールがきた。会いたい、駅で待っていると、彼女がいつも乗ってきた駅が指定されていた。行くと、すぐに青いマフラーを見つけた。海美は腕を絡めて、俺をホテルに連れて行った。

「初めては、古賀さんがいい」

潤んだ瞳で言われたら、断れなかった。俺は四十で、娘の翔子は七つ。海美は十九だった。若い肌は水分が過剰に含まれていて、ハリがありペタペタとしていた。湿った海風を感じているような気分だった。ゴムは付けていた。たった一回だった。信じられない確率だと思う。もしかすると、海美に仕組まれていたのかもしれない。海美はそのとき、妊娠した。

 その夜家に帰って、俺はもう海美には会わないほうがいいと決意していた。嫁も子どもも大切だった。断れなかったし、本当に可愛く思ったけれど、この生活を崩す危険はなくしたい。海美にとっても、そのほうがいいと思った。でもそれは遅すぎたのだ。

 海美からのメールは簡単だった。初めの頃と同じ、敬語の丁寧な文章だった。

「妊娠しました。古賀さんの子どもです。ひとりで育てようと思いますが、出産の費用を少し助けていただくことはできませんか。それ以外はお気になさらないでください。わたしは、古賀さんの代わりにこの子を愛せると思うと幸せです」

 金を用意して渡したとき、海美は困ったように笑った。

「陸と名付けます」

海と、陸は、交互に風が吹くんですよ。私、この子ができて本当に幸せです、と言った。それ以来、彼女とは一度も連絡を取っていない。

 ずっと真面目に生きてきたはずだ。あのことを除いては。

 娘が十八になって、青いマフラーを付けている。行ってきますと、朝早くに出ていく。そういうのを見ると、今でも少し海美のことを思い出す。陸は、俺の血を引いた子どもはどんなふうに育っただろうか。海美は元気だろうか。幸せになっているだろうか。

 俺は今でもふたりを思うと、何でもできる気がしてくる。たとえ道を間違えたと言われても、飾り気がなくて、俺のそのままをいいと言ってくれる彼女に、出会えて良かったと思う。

最後まで読んでくださってありがとうございます。励みになっています!