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音に願う

 軽やかな音楽が流れてきたとき、瑞希は顔をしかめて、スマホの裏を右手の爪でたたたんと叩いた。ケースの安っぽい金色の縁取りにはたくさんの傷が付いている。

「出たい」

 たったそれだけで、瑞希はそう言った。転がるような、それでいて水面下で息を潜めているようなピアノの音は変わらずに鳴り響く。

「瑞希、それは逃げって言うんだ」

「いいじゃない、戦う理由もないし」

 瑞希はそう言うと、すぐに立ち上がった。仕方がないから財布を取り出してあとに続く。

「ビターのチョコレートってね」

 明治のブラックチョコレートを齧りながら言う。

「実は一番砂糖が使われているんだって」

「どうしてさ」

と、僕は問う。まさか瑞希が板チョコを齧る日が来るなんて、と驚愕しながら。

「知らない。本当かどうかも知らない」

 小鼻の隣に小さく面皰ができて頬がふっくらとしてきた瑞希は、僕にはとても弱々しく見えていじらしかった。

 僕たちの家に着くと、瑞希は鍵を差し込むのを少しだけためらった。聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、

「今日も静かだったわ」

と呟く。それから、今度ははっきりした声で、

「もっと狭い家に越さない?」

と振り返る。僕は曖昧に笑って、瑞希から鍵を取り上げた。防音のための分厚い扉がきいと開く。

 もっと、と言ってもじゅうぶん手狭だ。1DKに押し込まれたたくさんの、今は空となった棚たち。それから、8畳の部屋の半分くらいを占めるぽっかりと空いた空間。ベッドも置けないくらい狭かった部屋。

 僕らは小さなダイニングの二人がけのテーブルに向かい合って座る。瑞希の板チョコはもう食べ終わっていた。僕の入れた紅茶が透明に揺れる。

「ねえ、瑞希」

「なあに」

「ほんとうはさ」

 僕はそっと、なんでもないことのようにそっと口にした。

「たぶん、願い事はたくさんあったほうが幸せになれるんじゃないかな。たったひとつが叶わないから、僕らはずっと不幸なんだ」

 瑞希は長い右手の爪で、テーブルをたたたんと叩いた。伸ばしっぱなしの爪の中に、チョコレートの欠片が詰まっている。

「ピアノを弾いていない瑞希だってちゃんと瑞希だ。幸せになるべきだよ」

「わからないわ」

 紅茶の中にぽたりと涙が落ちる。

「他に何を願ったらいいか、わからないの。ただピアノが弾きたかっただけなのよ。ピアノを失くしたこの部屋と同じ、心がぽっかりと空いているの」

 波紋が広がっていく紅茶を見ながら、僕は瑞希がピアノのために捨ててきたたくさんのことを思った。放課後の遊び、クラシック以外の音楽、学校の成績、友だちとの時間。ふう、と息を吐く。涙の溶けた紅茶はあんまり美味しくなさそうだな。それから、瑞希がつい最近捨てたものを思った。楽譜、CD、ビデオ、ドレスの似合う細い体型、そしてピアノ。

「たったひとつがいいのよ。簡単に叶うような小さなことなんか、願う前に叶えてるわ」

 僕はその震える左手を、固まってしまって動かない中指の第二関節をそっと撫でた。細い指に似合わない、鍛えられた強い関節だった。それからしばらくの間、音のない部屋でふたり、静かに涙を落としていた。

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