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気球

 カーテンの裏で、朝日が上ったみたいだ。セミダブルのベッドに大の字に寝転がって、ふぁぁ、とあくびを一つ。

 頭の上で、カーテンの花柄が透かして見える。部屋全体が、だんだんと明るくなってきてしまった。目がどんどん冴えてくる。

 ぼんやりと照らされた気球を眺める。朝焼けのカッパドキアはどんなにか美しいんだろう。静かに漂う小さな気球のモビールはトルコの町並みを見下ろすはずもなく、ただ部屋の中央で私を見張っている。

 今日も、朝がやってきた。そう呟くと、ぴりりと緊張感が走る。

 目を瞑って、耳を澄ます。カチ、カチ、カチ。カー、カー、烏が泣いている。コツ、コツ、コツ。カチ、カチ、カチ。どく、どく、どく。カチ、カチ、カチ。コツ、コツ、コツ。どく、どく、どく。

 ガチャリ。

 …どくん。

 鍵が回って、扉が開く音がする。バタン、と閉まるのと同時に、壁の方へ寝返りを打った。目をさらに固く瞑る。ガチャリ…、バタン。

 眠る眠る眠る眠る眠る眠る眠る眠る。

 私は、寝ているだけだ。ちゃんと寝て、起きて、食べて、この部屋にいればいいんだよ。

 電気がパチリとついて、ただいま、と優しい声が降ってきた。しばらく支度をしていたその音はパタパタと近づいてきて、そして、とても近くで止まる。できるだけ自然に、でも目は固く瞑って、全身で息をする。私は寝ている。寝ていることにしないと。

 腰まで伸びた髪の毛を、あの人がそっとすくって、しばらく弄んでいる。髪の毛には神経なんてないのに、まるで腕を掴まれているみたいに心地が悪い。カチ、カチ、カチ。ぴったり87秒経ってから、その人は髪の毛を離して、ベッドの端に腰掛けた。

「一緒にいてあげられなくて、ごめんね」

寂しそうな声だった。それから、私の首筋にそっとキスをすると、立ち上がった。

 ふっと、肩の力が抜ける。固く瞑っていたはずの目から、涙が滲みそうだった。

「じゃあ、行ってきます」

足音はパタパタと遠ざかって、電気がパチンと消えて、ガチャリ、ガチャリと扉が二回閉まって、私は目を開けた。

 涙が一筋、伝った。

 もう一度、大の字になる。カチ、カチ、カチ。さっき一瞬あの人が付けたエアコンの風に吹かれたのか、三色の気球がくるくると回っている。カチ、カチ、カチ。

 1DK10畳のこの部屋は私一人が眠るには少し広くて、真っ白の殺風景な中で、気球だけが心の拠り所である。

 むくりと起き上がって、裸足でペタペタと歩く。電気を付けて、キッチンへ。三食用意されたダイニングの奥には残念なことに今日も鍵のかかった二重扉がそびえ立っていて、私がここへ来てめでたく1000日目を迎えた。

 ふぁぁ、とあくびをして部屋を振り返った。二人で一緒に選んだベッド。カーテン。ソファ。白いのが可愛いよね、なんて言って、今じゃ白が一番苦手な色だ。

 ペタペタとベッドに戻って、寝転がる。カチ、カチ、カチ。時間だけが進んでいく。私は一生ここから出られないのだろうか。

 目を閉じると、静かな岩山に、鮮やかな気球が数え切れないほど浮かんでいるのであった。

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