ホームシック
くすんだ暗い金色のラインをなぞる。日本では少し見かけない趣味の、派手な朱色のベッドスローに肘をついて、右の手のひらに顎をのせる。異国の象の柄に沿って左手を動かす。三日前の夜、胸を弾ませながら塗った爪はもう、先から半分ほど地爪が覗いている。
「飽きたねえ」
ため息混じりに呟く。今なぞっている象は三匹目だ。
「あと二日あるんだけど」
サエが言う。自分だって、さっきからずっと同じ体勢でインスタばかり見ているくせに。
「ナツキがプール入ってる、これ怒られないのかな」
「プールはだめって言われてなかった?」
「あはは、やばー」
何がやばいのか、やばいって何なのかもわからなくて黙る。正直もう家に帰りたかった。
修学旅行の班や部屋は、学年全員が集められた小体育館で「自由に相手を見つけろ」とのことだった。あたしとサエはお互いがいれば他はなんでも良かったから、二人部屋を死守して、適当な四人組を探して合流して班になった。目配せをしあってあたしが班長に、サエが副班長になったから、あたしたちの天下だった。まるでふたりきりで海外旅行に来たみたいな気分だった。班行動も、部屋も、飛行機の席も、四泊五日、全行程サエと一緒だった。
この象と同じ柄の薄っぺらいズボンを、昨日買った。たったの百五十バーツだった。それから、ふたりで大笑いしながら、I♡Thailandと書かれたティーシャツも買った。これパジャマにしかならないよ、なんて言いながら、今日仲良くお揃いで着て、班行動ではツーショットを撮りまくった。
自分だって変なティーシャツを着た担任の先生は、カメラを構えてにやっと笑った。
「おまえらはいつも一緒にいるなあ」
少し顎を浮かせて、目の前の机の上の鏡を覗く。サエは相変わらず、隣のベッドで丸まってスマホを眺めている。
サエなら大丈夫だと思っていた。あたしは確かにちょっと神経質だし、他人と生活するのは苦手だし、修学旅行みたいな集団行事は大嫌いだ。中学までの宿泊行事は必ず途中で熱を出したり気持ちが悪くなったりとリタイアしていた。でも今回は、大好きなサエとだから楽しめると思っていた。
「わ、ナツキのストーリー見た?先生が怒って飛んでくるとこ写ってる」
誰に話しかけているんだろう。あたしはさっきからずっとスマホなんて見ていないのに。
普段のあたしたちは、何を喋っていたっけ。授業中のこと、部活のこと、放課後のこと。離れている時間に起こったことだ。
ずっと一緒にいる今は、何を喋ったらいいんだろう。あたしに見えていたものはサエも見ていた。あたしが感じたことはサエも感じていた。どちらかが話題を振っても「それな」で会話が終わってしまう。修学旅行の夜にふたりとも黙っているなんて、ちょっと悲しい。居心地が悪い。
「明日はどこに行くんだっけ?」
「アユタヤのほう。それから、飛行機で機内泊」
「そっか」
やっぱり私には、誰かと四六時中一緒にいるなんて無理だったんだ。だってまだ三日目の夜なのにこんなに気まずい。胃が痛いし、頭がふわふわする。
くすんだ金色の象はみんな同じ方向を向いて、集団で歩いていた。もうあたしは肘が疲れてしまって、ベッドに逆さまだけど突っ伏した。サエは何にも気にしていないような声で「そろそろ寝る?」と聞いてくる。
「うん、もう寝るね」
「わ、すっごい顔色悪いよ」
「ほんと?」
「早く寝な、明日の朝になっても治っていなかったら先生に言おう」
「う、うん」
サエは、冷蔵庫からあたしの水を出してコップに注いでくれた。それから、ふらふらするあたしを洗面所まで連れて行って歯磨きをさせた。その間ずっと、具合が悪くなったときの対処とか、班長の仕事とかをしおりを見て確認していた。
「いっぱい寝てちゃんと治すんだよ」
「うん」
「明日リカがいないなんて嫌だよ。寂しすぎる」
「うん」
「朝治ってたら、ちょっとプールの近くまで行ってみようよ」
「え、怒られてたんでしょ?」
「そうだけど。あたしも行ってみたかったんだもん。リカと一緒に」
「…うん」
ホテルの布団は三日目なのにまだ慣れなかった。早く家に帰りたい。でも。
「おやすみ」
「うん、あと、班長ってこんなに仕事あったんだね。ありがとう、おつかれさま。おやすみ」
一緒にいるのがサエで、やっぱり良かった。明日のために治さなくちゃな、と、目を瞑る。異国の象みたいに、夢の中のあたしたちは、同じ格好で仲良く並んで歩いていた。
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