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証明する方法

 汗だくになった先生が、ネクタイを緩めながら上下二つに分かれた黒板を入れ替える。

 かち、かちり。ペンを鳴らして、ため息。耳元を羽虫が横切って、不快な音がする。かち、かちり。

 ああもう、全然わかんない。まず、先生が黒板に書くゼータとクシーの見分けがつかない。てかなんで、ギリシャ文字なんて使うんだろ。日本人なんだから日本語使いましょうよ、ねえ。

 そう言ったら、きっと彼ならにやりと笑って、落ち着きなさい、と肩を抱くだろう。わたしを落ち着かせるように、とびきりやさしく。

 わざとらしいくらいに低い声で、耳元で囁く、やさしい敬語。

 ため息をつきながら黒板を追う。くせ字が読みづらいのにももう慣れた。隣の席の男の子がひとつ、あくびをする。前の席の女の子の頭が、かくんと項垂れた。

 知らない文字を並べて、頭の中を書き写す。証明したいことばかりだ。ただ信じるだけでは心は報われない。

 おかえり、と、昨日初めて彼は言った。わたしも、だからいつものお邪魔しますの代わりに、ただいま、と言った。狭く暖かい玄関でにっこりと笑う彼に、すぐにでも抱きつきたかった。ティーシャツの襟から覗く首元に、とくんと、胸が鳴った。

 証明してほしかった。あなたが愛しくてたまらないと、いつだってあなたのことを考えていると言ったその目が本物だと、示してほしかった。

 かち、かちり。隣の席の男の子はちらりとこちらを見て、口を尖らせたわたしと目が合った。あ、まつ毛が長いなあ。目の色が少し薄い。まじまじと見つめていると、照れたように少し笑った。わたしも笑い返した。

 綺麗な顔をした男の子だった。薄い桃色に染まった頬を、横目で眺める。わかりやすい好意が、苛立っていたわたしを鎮めてくれた。いま、わたしはどんな顔をしているだろう。

 かち、かちり。すぐ隣で音がして、驚いて右を向く。かち、かちり。演習の時間になっていたらしい。先生はわたしのノートを覗き込んでふっと笑った。目が合うと、いたずらっぽい顔をした。

「できましたか」

「いえ」

 隣を見ると、男の子もにやりとした。先生のボールペンがまた、かちりと鳴る。

「自分で考えてみましょうね」

「はい」

 男の子とふたりで、くすくすと笑う。先生はまた黒板の前に戻っていった。心なしか、いつもより足音が速く大きい。それを聞いて、わたしはくすくすと笑う。嬉しくって、笑う。

 知らない言語を使って、丁寧に証明をする。数学の証明は難しいけれど、気持ちの証明はこんなにも簡単だ。どんなにわかりやすい言葉よりも、態度ひとつで伝わるものがある。

 黒板の前にたどり着くと、先生はまた涼しい顔に戻った。何もなかったかのように汗を拭う。昨日のことなんて、まるで全く覚えていないように。

 昨夜よりも高いさわやかな声で、授業の終わりを告げる。わたしは笑顔でそれを眺める。彼はわたしとは目を合わせない。それでも、彼の家に行けばきっとまた、おかえり、と言ってくれる。安心して彼を眺めながら、わたしはひとつ、あくびをした。

 耳元を、小さな生き物たちが楽しげに通り抜けて行った。

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