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猫じゃらし

 世の中には「当たり前」が多くて、ちょっと疲れてしまう。

 例えば、好き嫌いはしないほうがいい、とか。なんで?僕はグリーンピースが苦手だけれど、頑なに食べなくてもこれまでなんの支障もなかった。恥ずかしいから食べなさいと言われたこともあった。どうして恥ずかしいのか、僕にはわからない。

 他には例えば、料理のできる女の子は家庭的だ、とか。料理はとっても上手だけれど、掃除も洗濯も何もできない女の子を、僕は知っている。例えば、友だちは大切にしましょう、とか。大切にしたいと自分から思えないやつなんて、友だちじゃないと僕は思う。例えば、素敵な異性を意識してしまう、とか。

 僕は男の子だ。そして、男の子が好きだ。このことは、誰にも、学校で一番の親友の古賀翔子にさえも言ったことがない。古賀はすごく魅力的な女の子だ。料理が上手で、でも家庭的じゃなくて、周りの目線を気にせず堂々としていて、でも本当はとっても怖がりで、脚が綺麗なのを誇りに思っていて、陰でものすごく努力をしている。見た目も素敵だから男の子からよく声をかけられているけれど、中身がこんなに素敵なのを知っているのは僕だけかもしれない。それをとても幸せなことだと思うし、申し訳なくも思う。僕は古賀に対して恋愛感情を抱くことはないだろうから。

 それはきっと、あの夏のせいだ。

 小学五年生、夏休み直前の体育の時間に、僕は跳び箱で派手に転んで、足をひどく骨折した。跳び箱で入院なんてださくて嫌だったが、本当に痛かった。夏休みは遊べなさそうだと聞いて、自分の極度の運動音痴を呪った。

 光くんは隣のベッドにいた。光くんはどこが悪いのか、僕は知らなかった。ただ、光くんは車椅子に乗っていた。

 僕が夏休みの宿題をしていると、見せてと言った。毎日「病院はつまらないです。」と汚い字で書いた日記を見て、光くんは本当に可笑しそうに笑った。その日は「光くんとお友だちになりました。」と、下手くそな似顔絵とともに書いた。

 毎日、僕たちは「つまらないねえ」と言っては笑った。難しい顔をして本を読んで読書感想文を書いていた僕を、光くんはじぃっと見つめていた。書き終わった、と言うと、見せて見せてとせがんだ。光くんは一つ年上の六年生だったけれど、なんだか弟みたいに可愛らしかった。

 足は痛かったし、手術はとっても怖かった。でも、光くんといるときは、不安を見せたくないと思った。僕は格好つけて、いつも笑顔でいた。

 リハビリにいろんなところを歩いているとき、光くんは付いてきてくれた。車椅子を器用に操って、がんばれ、がんばれと言ってくれた。仲良しになった僕たちを見て、看護師さんも優しく笑った。

 龍太くん。いつも光くんはにっこりと笑った。可愛らしい丸い目を輝かせて、でも、その声は少しかすれ始めていて、細い首には喉仏がぽっかりと浮かんでいた。僕はまだだったけれど、同い年の男の子たちにも、声変わりが始まっている子がいた。光くんは色白で、儚くて可愛らしかったけれど、立派な男の子だった。そういうのを見ると、僕は胸がはちきれそうだった。龍太くん、龍太くんがいてくれて、本当に楽しかった。

 僕が退院するとき、光くんは泣いた。車椅子でお見送りをしてくれた。折った猫じゃらしを僕に手渡して「もう会えないと、いいね」と言った。看護師さんが、うるっとしていた。そのときの僕はどうしてだかわからなかったから、「やだよ、また会おうね、絶対だよ!」と言った。車椅子から、腕を伸ばして摘んでくれた、きっと一番背が高かった猫じゃらしが、僕の手の中で揺れた。

 光くんとはそれきり会えなかった。僕もすっかり声変わりをして、周りの男の子たちの首元を見ては、ああ、と思う。触れたい。できれば、立派な猫じゃらしでくすぐるように、優しく触れたい。小さな光くんに触れたい。

 しぶやぁ、と古賀に呼ばれる。振り向くと、短いスカートを履いた魅力的な女の子が歩いてくる。手を振って、横に来るまで待つ。

「古賀、おはよう」

「おはよ」

「今日も素敵だね」

大切な友だちに、言葉を贈る。彼女の声は高く、首はつるんとまっすぐに伸びている。長くて綺麗な首だけれど、僕は少し悲しい。そうして、悲しく思う自分が嫌になる。男とか女とか、そういうのは関係なく古賀のことが好きだ。だから、僕が性を感じる首筋なんて、隠してくれたらいいのに、と思う。

 彼女は「当たり前」を気にする子じゃないかもしれないと、僕は少し希望を持っている。もしそうでなくても責めるとか嫌いになるとかは思わないけれど、この子に、いつか光くんの話をできたらいいなと、思った。

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