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情景描写

 声を上げて泣く、でも、雨の音にかき消される。冷たい指。暗い駅、たくさんの人が通る、私は、そっと、しゃがみ込む。ぐしょぐしょになったズボンの裾にお尻が当たって、湿っていく。

 畳んだ傘を少し震わせた。膝に水がはねた。ふ、と笑った。涙は止まらない。

 連絡先をスクロールして、彼を選ぶ。私のことを知り尽くした彼。

「もしもし?」

 聞こえてきた声は想像と違った。私は鼻をすする。向こうからも、雨の音が聞こえる。

「ねえ、私の長所を教えて」

「長所?」

 彼は戸惑ったように、でも少し可笑しそうに、私の長所を話してくれた。小さい女の子がよたよたと近づいてくる。私は立ち上がる。女の子は、お母さんに手を引かれてバスに乗り込んでいく。私の乗りたかったバス。

「他には?」

 いくらでも聞きたかった。楽しそうで優しい、彼の声を。

 別に、内容なんかどうでも良かった。いきなり電話をかけても迷惑がらない。私の長所を知っていてくれる。そんな人がいるだけで、十分だった。私は声を上げて泣いた。

「どした」

 彼はそっと言った。バスが去っていった。私は傘を振って、それから、さっきあったことを話した。仕事で散々ダメ出しを受けたこと。あなたのお話じゃ信用できる要素が一つもない、とまで言われて、思わず泣いてしまったこと。泣き止まないから家に帰れなくて、電話したこと。

「情景描写ってこういうことなのね、と思ってるわ今」

 春の嵐。びちゃびちゃと、私の涙を降らせる。彼も言った。

「俺も、ドラマみたいでびっくりしてる」

 ふ、と笑う。苦しかったはずなのに、こんな出来事さえ、きっとあとで笑い話になる。一緒に笑い合っている未来を想像できる。それだけで、人は簡単に救われるのだ。

「まあなんだ、やるだけやれよ。お前が全力出したら怖いもんないだろ。それに、失敗したら慰めてやるから」

 ん、と掠れた声で呟く。失敗しても、しなくても、彼はいつも私を助けてくれる。

 サワダー、と、電話の奥で声がする。彼が呼ばれている。まだー、と、彼が答えた。彼は私に向かって、もう一度、雨に負けないはっきりとした声で言った。

「長所なんてきりがないくらいあるけどさ。そうやって、笑ったり泣いたりしながら全力で向き合えるところが、お前の一番の長所なんだからな」

 サワダ、雨止んだから今のうちに行くぞ。ちょっと待てって。私は空を見上げる。雲の切れ目から、月が覗いている。そろそろこちらでも雨が止むだろう。

「失敗したらラーメン奢ってね」

「うわ、前言撤回、絶対失敗するなよ」

 ふ、ふふ。ズボンのお尻をそっと払いながら立ち上がる。

 ありがとね、と言う。おう、と言われる。

 好きだよ、を、飲み込む。

「じゃあ、また」

 もっと頑張ってからだ。優しい彼も、じゃあなと言った。少し間が空いて、それから、ぷつりと切れた。

 傘のネームをぱちりと留める。新しいバスが来る。私は顔を上げて、静かに一歩、前に踏み出した。

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