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寄り添う音

 下沼しもぬま茜音あかねはクラスで評判の美少女だ。男子たちがこぞって優しく声をかけるほどに人気がある。でも彼女は、彼らにあまり興味がないらしい。

栄吾えいご、そこの低音小さい」

 俺が失敗をすると、すぐに手の甲をつねってくる癖がある。痛いからやめてほしい。

「何見てんのよ。集中して」

「ごめん」

 俺はため息をついた。ぷるぷるの黒い髪の毛が腕に当たって集中ができないのだ。茜音の機嫌を損ねないように、できるだけ優しく言う。

「茜音、ピアノ弾くときだけ髪を結んだらどう?」

「ああ、そうね」

 茜音が立ち上がる。ピアノから離れて、ゴムで髪の毛を結んだ。クラスの男子たちが噂をするほど綺麗な髪の毛が、さらさらと揺れる。

 じっと見つめていると、茜音はそれに気がついて、ウインクをしてくる。ぽってりと厚い唇を突き出しながら。

「栄吾、髪の毛切ったらいいのに。前髪重たいよ」

「そのほうが顔が隠れて、いいだろ」

「隠さなくていいのに」

 茜音みたいな綺麗な顔をずっと隣で見てきたのだから、自分の地味な顔がコンプレックスになるのも当然だ。目立たないように、静かに生きていたい。茜音とは正反対の自分。

 似合わないことくらい、自分がいちばんわかっている。

「下沼さん、教科書、忘れてるよ」

 低い声を真似て言ったのは茜音だ。俺は鼻をすっと鳴らす。

「うるさいなあ」

「ほんとだ、ありがとう梶原かじわらくん」

 今度はいつもの声。くすくすと、綺麗な顔で笑った。なんの打ち合わせもしていないのに、名字で呼んだ俺に合わせて梶原くん、と呼んだ茜音に、内心すごく驚いた。俺も、だんだん耐えきれなくなって笑い出す。他人の振りをするなんて、ほんとうは馬鹿馬鹿しくてやってられないのだ。

「茜音が目立つのがいけないんだよ」

「栄吾だって、実は女の子の間で結構人気あるんだから」

「そうなの?」

「やだ、にやけちゃって」

 コンコン、とノックが聞こえた。はぁい、と答えて茜音がドアを開ける。優雅なティーセットとともに、下沼先生が入ってくる。

「連弾は進んだ?」

「全然。栄吾が下手くそなの」

「聴こえていたけれど、茜音だって序盤のトリルが動いていなかったわよ」

「おばさん、ひどい」

 先生の姪っ子は口を膨らませる。改めて見ると美人の家系だ。ピアノも一流で、昔から尊敬している。入れてもらった紅茶を飲みながら、学校での話をした。

「栄吾は高橋たかはしくんと仲がいいよね」

「うん。ふたりでひっそりと生きてるんだ」

「ひっそりと? 栄吾くん、こんなにいい男なのに」

 クッキーを噛み砕いて、静かに聞いている。茜音のほうをちらりと見る。

 彼女は透き通るほど白いもちもちの頬を赤く染めて言った。

「ひっそりなんて嘘よ。隠しきれていないもの。もう私、栄吾は私のだってクラス中に言って回りたい」

 下沼先生が、ふふ、と楽しそうに笑う。もう何度も聞いたこの台詞に、俺は飽きずに目を逸らす。俺だってほんとうは言ってやりたい。下沼茜音は俺の彼女だって、例えばいつも猫なで声で茜音に話しかける学級委員なんかに。

「青春もいいけど、次の発表会、あなたたちをトリにしておいたからね。練習するのよ」

「私たちもう高校生だもの、任せて」

 先生に向かって、俺も頷いてみせる。

「頑張ります」

 音の間違いや強弱などの課題はあっても、俺たちはリズムが合わないことは一度もなかった。お互いの音を聴いて、乗って、入り込んで、一つになって紡いでいく。ふたりで弾いているのに、まるでひとりみたいな、あるいは逆に大勢のような、そんな連弾。気持ちがいい。

 茜音が俺の前髪をそっと持ち上げた。何かいい香りを漂わせながら、優しく笑いかける。俺のパートナー。

「そろそろ弾こう」

 椅子の高さを直して、ペダルの位置を確認して、顔を見合わせる。深く息を吐く。鍵盤に、指を乗せる。

 茜音の香りが鼻をつく。発表会の本番くらいは、前髪を分けてもいいかな。なるべく格好良くしてドレス姿の茜音に並びたい。

 鼻をすっと鳴らす。これが合図になる。弾けるような最初の一音を、ぴったりと寄り添って鳴らした。


このお話は 抜け駆け の続編です。続編と言っても、時系列は逆ですね。こちらは梶原くん目線のお話になりました。筆者は下沼さんが大好きで、下沼さん目線を描きたかったのですが、彼女は周りから見たほうが綺麗だなと判断し、栄吾くんに託しました。ピアノで連弾しちゃうふたり、素敵ですよね。

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