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アイライナー

 ピンクのアイライナーを買った。ピンクっぽいブラウンとかではなくて、完全な薄い桜色だ。目もとに優しい愛。

 夏弥なつみの朝は忙しい。6時に起きて7時半には家を出るけれど、その間に汗まみれの体にシャワーを当てて、夜に散らかした足場のない部屋を軽く掃除して、ご飯を作りご飯を食べ、化粧をして服を着て、髪の毛を整えて出かける。いつも同じ流れだ。

 ふと、夏弥は気がつく。シャワーを浴びているときだった。明るい色が必要だと。鏡を見るたびにふっと気分を浮かせてくれる、パステルカラー。その日の夜薬局に寄って買ったプチプラのアイライナーは、試しで描いてみた手の甲でまるで花びらみたいに優しく発色した。

 夏弥の朝に花が咲いた。上まぶたは影をつけるだけの薄めのブラウンシャドウにして、ピンクのアイラインを引いた。アイラインなんていつもは目尻しか引かないのに、今日は目頭からがっつり長めに引いた。それに合わせてベージュのマスカラを毛先だけに塗った。目もとがぱっと明るくなって、花開いたみたいにまつ毛が揺れた。

 それだけでなんだか嬉しい気持ちになる。最近着ていなかったワンピースを引っ張り出して、髪の毛もふんわりと巻いて。行ってきます、と呟くと、明るい空気がさらさらと、ドアの隙間から入り込むような気がした。

「夏弥ちゃん、今日デートでもあるの?」

 先輩に聞かれて、にっこりと笑ってみせる。お洒落をしてデートだなんて、もうしばらくしていなかった。

「そんなんじゃないですよ。気分転換です」

 先輩はふふっと笑い返した。嫌な予感がしていた。

 家に帰るのは夜9時ぴったり、彼は部屋に籠もってゲームをしている。夏弥は静かに洗面所へ行き手を洗って、それからふと、鏡を見た。朝施した化粧はほとんど崩れて、でも目もとのピンクはほんのり残っている。柔らかなワンピースと髪型が、夏弥を女らしく見せていた。

「おい」

 嫌な、予感がしていた。

「どこ行ってたんだ」

 そして、そういう予感はいつも当たる。

「男と遊んでたんじゃないだろうな」

 夏弥の背後に彼が立つ。鏡越しに目が合う。ぼさぼさの髪の毛に充血した目。昔は清潔だった彼の肌は、今はたくさんのニキビが膨れ上がっている。

「ちがうよ」

 震える声で答えた。

「仕事だよ。いつも通り」

「仕事?」

 やばい、と思った。彼は仕事という単語が大嫌いだ。鏡越しに彼が動いたのが見えた。どう動いたのかはわからない。どうでもよかった。夏弥の後頭部を殴り、綺麗に巻かれた髪の毛を掴み、脇腹を蹴り、夏弥がうずくまったところで背中を蹴った。夏弥は頭を抱えて、ごめんなさい、と呟く。ごめんなさいは魔法の言葉だ。一気にすべて他人事にできる。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。暉久あきひさくん、ごめんなさい。彼は夏弥を投げ飛ばしたり、物を投げたり蹴ったりして、部屋を散らかしていく。夏弥は自分の声だけに耳を澄まして終わりを待つ。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。彼は最後、いつも夏弥の顔をじっと見る。でも今日は、いつもとは違う言葉を吐いた。

「夏弥はかわいいな」

 それを聞いて、夏弥の目に涙が浮かんだ。その目は腫れ上がって、もうピンクのアイラインなんてなくても真っ赤だった。彼のごめんがなかったから。夏弥は滲んでいく彼を見つめながらぼんやりと思う。もう終わりだった。本当はだいぶ前から終わっていた。でも、彼は夏弥を愛している。たとえそれがどんなに歪んだ愛でも、夏弥は愛を感じていた。

 夏弥の朝に花が咲いた。腫れ上がった体にシャワーを当てて、散らかした部屋を片付けて、ご飯を作りご飯を食べ、化粧をする。ピンクのアイラインは今日はやめた。でもポーチにしっかりとしまった。服を着て、髪の毛を整えて。

「いってきます」

 小さな声で呟いた。

「さよなら」

 スーツケースに最低限の荷物を押し込んだ。血のついたワンピースは捨てていく。彼はまだ寝ている時間だ。夏弥は彼の愛も一緒に捨てていく。

 腫れ上がった目で彼の部屋を見つめた。目もとに優しい愛。

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