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花と本棚

 冷房がもったいないからさ、と、本を片手に笑った。畳の部屋でマットを敷いてヨガをするあたしの隣でさくらは寝転ぶ。

 あたしはイヤフォンを付けているし、さくらは本を読んでいる。涼しい部屋の中で、ふたり、無言だ。

 コロナのせいでホットヨガも自宅でやるものになってしまった。数少ない休日を自分のために使う。いつもより汗をかけないから効果は少ない。それに、変な格好をしているところを見られるのは恥ずかしい。

 さくらはまじめな顔をして本を読んでいる。七つ年下の妹の部屋には自分で買ったらしい大きな本棚と、そこに並ぶたくさんの小説がある。ちらりと見たけれど、悲しいとき用、楽しいとき用、と仕分けされていて面白い。そんなに本が好きなんだ、と、本棚を買ってきたときには驚いたな。あたしは本はあんまり読まない。嫌いじゃないけれど、アニメとかのほうが楽だから。

 ぼんやりとさくらを眺めていると、目が合う。本を閉じて、近づいてくる。

「お姉ちゃん」

 なんだろ。なんか言ってる。

「お姉ちゃん、スマホ、鳴ってるよ」

 イヤフォンを外すと、自分の部屋からスマホの音が聞こえてきた。電話だ。

「ごめん、ありがと」

 ん、とさくらは言って、また本を開いた。

「もしもし?」

「ああ、ひまり。今平気?」

 陽平の声。電話だといつもより低く聞こえる。頬がゆるむ。

「うん、ヨガしてたところ。どうしたの?」
「今度の休みなんだけど」

 せっかく陽平の観たがっていた映画の予約をとっておいたのに、行けなくなったらしい。口を尖らせて言う。

「なんかそういうの、最近多くない?」

 寂しいんだけど、と、できるだけ可愛らしく言ったつもりだったのに、はぁ、とため息が聞こえた。

「だから、ごめんって」

 あたしも、はぁ、とため息をついた。手帳のデートという文字を二重線で消す。

「いいよ。また今度ね」

 電話を切るのはいつも陽平からだ。

 畳の部屋に戻ると、さくらが本を閉じてスマホをいじっていた。ちらりとあたしを見て、また視線を戻す。

 声が聞こえていただろうか。恥ずかしくなって、ヨガマットを畳む。

 よっこらしょ、と、わざと言う。

「ねえお姉ちゃん」

 イヤフォンをつけないあたしを見て、さくらが話しかけてきた。

「今度これ食べに行こう」

 画面には美味しそうな桃のかき氷。桃はあたしたちの一番好きな果物だった。家で出るといつも争奪戦になる。

「なんで?」

「美味しそうじゃん」

 さくらは笑う。無邪気な笑顔を真正面から見るのは久しぶりな気がした。

「いいけど、あたし忙しいよ」

「いつが空いているの」

 そんなの、陽平のために空けてあったあの日しかなかった。でもまあ、家にいるより美味しいものを食べに行ったほうが楽しいか。その日はさくらも空いていたようで、新しく予定が入る。

 やった、楽しみだな、とさくらがはしゃぐ。お姉ちゃんとデート。

 ふたりで出かけることなんてほとんどなかった。年が離れているから、小さいころは面倒を見させられるのが嫌だった。七つも違うと世代も違うから、話も合わない。

 でも。さっきの二重線の下にもう一度、デートと書き込んでみる。さくらと、デート。

 ふと思いついて提案する。

「じゃあついでに、この映画も見ない?」

「え、これ、原作読んだことある! 行きたい」

 意外だった。陽平の選んだ映画はそこまで有名ではなく、でも本当にいいんだ、もっと広まって欲しいよと彼が言っていた。

「原作か。面白い?」

「本棚にあるから読んでいいよ」

 お姉ちゃん、とさくらが笑う。花のように、愛らしく。あたしのたったひとりの妹。

「本棚、気分ごとにわけてあるから、自由に読んでいいからね」

 さくらとは話が合わないと思っていた。でも、いつまでも子どもではないのかもしれない。年が離れているなんて言い訳だった。もうこんなに大きくなって、人の心を思いやることのできる、優しい女性になっていた。

 あたしも笑った。花のように。

 ふたりは花の名前で繋がっている。

「ありがとう」

 ヨガマットを片付けて、音楽も止める。さくらの部屋から本を取ってくる。例の原作は、寂しいとき、の棚にあった。涼しい部屋の中で寝転んで本を開く。さくらもさっきの続きを読み始める。

 久しぶりに紙をめくって文章を読む。なぜか自然と、さくらの優しい声で朗読されているような気になる。すらすらと心に入ってきて、心地がよかった。

 畳がひんやりと、あたしたちの体温を奪っていく。

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