話してくれないから
「今日どうだった?」
夜の十一時、野菜炒めと味噌汁を温めて机に並べる。いただきます、と手を合わせてから、陽菜が黙々と頬張っていたところだった。
「普通」
いつも通りの素っ気ない返事。高校三年生にもなれば反抗期も終わるかと思っていたが、未だに心を開いてはくれないようだ。最近は塾で帰りも遅いし、陽菜が毎日何を考えて過ごしているのかさっぱりわからない。大学受験のために毎日勉強を頑張っているようだが、それを理由に避けられているような気もする。
「普通って…もっと何かあるでしょう?」
「ないよ。いつも通り勉強しただけ」
かけらも残さずに食べ終わって、手を合わせる。律儀な子だ。小さい頃から、食事の前後は祈るように手を合わせる子どもだった。私の姉からはよく、どんな育て方をしたの、と聞かれたけれど、私は何も言っていない。気が付いたときからこうだった。この子はもとから、私が何も言わなくても一人でできる子だ。
さっとお皿を洗って、部屋に戻っていく。これから少し勉強をして、お風呂に入って、寝る。いつも通りだ。名の知られた大学に入るには、人並み以上の努力が必要である。
パタリと閉じられたドアを見て、はぁ、とため息をついた。先にお風呂に入ろう。
中学生の頃はまだましだった。生徒会に入ったとか、合唱の伴奏を任されたとか、部活の合宿に行くとか、一応報告はしてくれた。高校に入ってからは何もない。テスト期間も、行事も、家に送られてくる学校からの手紙にしか書いていない。友だちの名前すら言わない。遊びに行くときも出掛けるとしか言わないし、夜遅くに連絡が来て、今日泊まる、と言われることもあった。でもそれも、三年生になってからはなくなった。志望校も、いつの間にか決まっていた。国立で学費が安い代わりに、偏差値の高いところだった。
熱いシャワーを浴びながら、思い出す。小さいとき、お風呂に入れてあげていたのは夫のほうだった。陽菜は夫によく懐いていて、小学校の高学年になるまでは一緒に入っていた。髪の毛を溶かすような熱いお湯は、子どもには少し熱すぎるのかもしれない。でも私は、目が覚めるくらいの温度でないと安心できない。
陽菜が幼稚園生のとき子ども同士で、お父さんとお母さん、どっちが好き?という話をしていたのを母親たちで聞いていた。他の子どもたちはみんな、お母さん、一緒に遊んでくれるから、と笑顔で答えていたけれど、陽菜だけはお父さんと言った。どうして?と聞かれたら、お父さんは話を聞いてくれるから、と答えた。周りのお母さんたちはいい旦那さんね、と気を遣っていたけれど、私はとても恥ずかしかった。手を繋いで家に帰るとき、どうしてお母さんと言わなかったの?と聞くと、陽菜はしゅんとして謝った。謝って欲しいんじゃないのよ。小さく震える手を引っ張って、早足で家に帰ったのを覚えている。
化粧水を仕込んで、髪の毛を乾かす。陽菜は私よりうんと若くて、ハリのある肌をしている。でも最近は、顎のところにニキビが目立ってきた。少ないお小遣いで買った安い化粧品を使っているからだろう。言ってくれればそのくらい与えてやるのに、相談をしない。可愛げがなくて、少し怖い。
お風呂空いたよ、と言おうとして、部屋の前に立つ。ノックする手が止まる。いつもは無言で勉強している陽菜の部屋から、音が聞こえる。
泣き声だった。もう嫌だ、やめちゃいたい。辛い、なんで、私ばっかり。嗚咽とともに、微かな声が聞こえてくる。大学くらい、好きに決めたかった。でも、偏差値がなくちゃ、認めてもらえない。泣きじゃくっているようだった。私はそっと、ドアの前を離れる。
好きに決めたかった?自分で決めたじゃない。認めてもらえないって、誰に?いつもこうして、一人で泣いているの?わからない。わからないことばかりだ。あの子のことは、何も知らない。だって、言ってくれないんだもの。普通、と答えるばかりで、夫が単身赴任でこの家を出てから六年、まともに口も聞いてくれなかった。今は二人で住んでいるこの家に、実際は、私もあの子も一人ぼっちだった。
しばらくして部屋を出てきた陽菜は、素知らぬ顔をしていた。ゆっくりと水を飲んで、私がお風呂から上がっていることを目で確認すると、洗面所へ入っていった。そっとドアが閉まってから、私も、音もなくはらはらと泣いた。
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