思い出すまで
つん、とつつかれて、僕はびくんと肩を震わせる。手に持っていた小説を栞を挟むのも忘れて閉じる。振り向くと、バーコードみたいにまっすぐ並んだ長めの前髪の奥で、二重のきれいな女の子が笑った。
横浜駅のドトール前、平日の午前九時は忙しい人たちでいっぱいだった。文庫本の上で行き交う足をたくさん見た。みんなここではないどこかへ向かっていく、天井の低い空間。左側は白の、右側は黄色の明かりが灯っていた。朝だというのに、人工的な光の馴染む空間だった。約束の時間より二分過ぎて、女の子は現れた。
はじめましてだね。
そう言って、何度も画面で眺めた女の子はもう一度目で笑った。
シワ一つないシャツワンピースを抜き襟で着て、その下に淡いグリーンのプリーツスカートを合わせている。胸の膨らみの下できゅっとベルトを締めていた。鞄は小さな赤いポシェット。それとは別に、白地に黒い紐のショッピングバッグを提げている。
画面で見るより肌が白く、眉も薄かった。髪は艶めいて、後ろでくくられていた。
そうだね。はじめまして。
僕も言う。それからなんとなく横に並んで、歩き出した。
いろんな話をした。初めてなのに盛り上がったと思う。家族のこと、友だちのこと、本や音楽のこと、彼女の飼っている鳥が必ず玄関まで迎えに来てくれること、僕のお隣さんが真夏によくおでんを分けてくれること、彼女が好きな切り干し大根の味、僕のおじいさんの山で採れるきのこの色について。山の中のおじいさんの家にほんの小さい頃しばらく住んでいて、近所の女の子ときのこをとったり追いかけっこをして遊んだ。僕が何を話しても彼女は興味深そうに聞いてくれた。まるでふたりきりの秘密が増えたみたいに、いたずらっぽく目を光らせて、上目遣いの甘ったるい声でくくくと笑った。
半分以上を寝過ごした映画を見終わって、彼女はつまらなかったねと肘を小突いてまた笑った。暗いところでもその瞳は自然に光った。ちょっと乱れた前髪を指でささっと流すと、またバーコードみたいなまっすぐに戻った。
夕方のカフェで、彼女は頬杖をついて僕をじっと眺めた。たっぷりと光に満ちた黒い瞳は、僕の喉をごくんと鳴らした。
そろそろ、いいかな。
彼女はショッピングバッグの中からいくつかの紙を出して僕に渡す。一つ一つ丁寧に説明をする指先でネイルストーンが輝く。落ち着いた色合いのネイルで、それだけが華やかで目立っていた。彼女の睫毛が僕を指す。
僕は財布を取り出して、一万円札を五枚机に置いた。二つに折りまげられた跡を伸ばしながら彼女が言う。
ありがとう。今日はとっても楽しかった。
くくくと笑って立ち上がる。行こう、と手を伸ばす。白くて薄くて、親指の付け根だけふっくらとしたきめ細かい桜色の手のひら。僕はその手を掴まずに、隣に立って歩き始める。
また、誘ってもいいかな。
帰り際、僕は言った。
きみのことがとても気に入ったんだ。
彼女は眉を下げて答えた。
いいよ。また会おうね。
くるりと背を向けて去っていく。薄いシャツの中でプリーツスカートが翻る。肩を回しならゆっくりと歩く歩き方は、間違いなく小さい頃よく遊んだ女の子だった。きれいな花を摘んで笑う笑顔を思い出す。あの頃はあんなに目が黒かっただろうか。
エスカレーターに吸い込まれていく彼女の後ろ姿が消えてしまうまで、僕はじっと見つめていた。横浜駅は朝と変わらず冷たい光で満ちている。彼女と繋がれなかった右手がいつまでも震えていた。
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