五つ数える

 いち、に、さん、し、ご。

 まつ毛がぱっと上を向く。まぶたが少し重なって奥二重を形作る。薄い桃色のアイシャドウがキラリと光る。灰色がかった瞳が一瞬光をたたえて、またすぐ、下を向く。

 いち、に、さん、し、ご。

 本を読むのは苦手だ。うまく物語に入り込めなくて、ただ文字を噛んで潰しているような気持ちになる。頭の上をひとつの世界が通り過ぎて、僕だけが置いていかれる。

 いち、に、さん、し、ご。

 けれど、彼女が本を読む姿はとても好きだ。穏やかな表情で、柔らかな眼差しで、ゆっくりと文字をたどっていく。ぴったり五つ数えるたびに行が次に移るらしく、規則正しいまぶたの動きを、僕はずっと眺めていられる。

 時折、彼女がふっと目を細める。僕は彼女の中にある物語を想像する。本に書いてある物語とはきっとほんの少し異なった、彼女だけの世界。それを想像するとき、僕はちょっぴり温かい気持ちになる。

 次の駅のアナウンスが入って、目の前に座る彼女が顔を上げる。駅名を確認し、安心した顔を見せてから、また本に視線を落とす。彼女の降りる駅まであと少し。僕も軽く頷きながら、また、リズムを刻む作業に戻る。

 いち、に、さん、し。

 ご、と数えるより先に、突然、本当に突然、彼女は上を向いた。僕とばっちり目が合って、目をぱちぱちとさせる。僕もまた、はやる心臓を誤魔化すように急いで瞬きをする。彼女は少し不思議そうな顔をして、それから、ゆっくりと目を逸らした。僕は目を逸らせなかった。彼女はもう一度ちらりと僕を見たが、それきりだった。本の世界に入り込んで、一定のリズムを刻む。

 物語が苦手だった。けれど、現実はもっと苦手だった。どんなに想像を膨らませても、僕が彼女の頭の中の世界に迷い込むことはない。僕だけがこの冷たい現実に置いてけぼりで、彼女はさっさと次の行へと進んでいく。

 いち、に、さん、し、ご。

 まつ毛が上を向くたびに、すっと息を吸う。意識して吐き出さないと過呼吸になりそうだ。

 前の電車に遅延が生じたようで、この電車はゆっくりと走っている。窓の外で自転車がほんの少しずつ後退していくように見える。柔らかな時の流れ。

 きっと、と思う。きっと今日、彼女のゆったりとした日常の一部に、僕も登場したんだ。流れる景色のほんの少しでも、入り込めたんだ。

 息を整えてから視線を戻すと、彼女は眠気に誘われていた。きらきらした昼下がりの車内。暖かい空気。桃色のアイシャドウ。

 彼女の降りる駅より一足先に、僕の最寄り駅に到着する。僕は少し迷う。こっくり、こっくり。彼女の様子を見て、微笑む。心の中で、さようならと呟く。僕は幸せだった。

 いち、に、さん、し、ご。

 僕は軽やかに歩き出す。電車もゆっくり動き出す。帰り道、彼女の読んでいた小説のタイトルを、何度も反芻した。

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