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明けの明星

 右腕を精一杯伸ばしてカーテンを引く。ぽつぽつと付いていたマンションの明かりはとうに消え、代わりにうっすらと空が白んでいた。夜に隠れそびれた小さな星が光る。

 そっとテレビを消して、杏里にラインを送る。ソファに足を投げ出すと、冷えた足先に当たるぬくもりを感じる。

「言ってたアニメ、全部観たよ」

 眼鏡を外して、伸びをした。一晩中同じ体勢で見つめていたテレビの画面に自分が映っている。ぶるりと身震いして立ち上がる。

 細かな絵柄がたくさんプリントされているカラフルなマグカップの内側に、ココアの跡がこびりついている。水道の蛇口をひねって水につける。明方の冷たい水が跳ねて、指を刺した。

 んん、と声が聞こえる。音がうるさかっただろうか。もぞもぞとソファの上で動いているのを、少し離れたキッチンから見下ろす。目が、じーんとする。

 スマホが震えて、杏里から返信が届いた。

「うそ、徹夜? やば!」

 通知を見て少し、ふっと笑う。こんな時間に、なんで起きているんだ。沸かしたお湯で、シンプルな黒いマグカップにインスタントの珈琲を入れる。

「面白かった? わたし十八話あたりのシーンがすごく好きでさ…」

 既読をつける。感動したシーンも、笑えたシーンも、仕組まれたみたいに一緒だった。この子と一緒に観られたら、もっと面白かったかもしれない。

「わかる、すごく面白かった。今度奢るから感想会しようよ」

「いいね〜、でもその前に篠田の家でもう一回、一緒に観たいかも」

 ちらりと、シンクに置いたほうのマグカップを見る。透明な水を注いだのが嘘のように濁りきっていた。よくかき混ぜた珈琲を啜る。眠たい頭にすっと、染み渡っていく。少し迷って、でも、唇を噛む。

「すごく楽しそうだけど、あんまりそういうこと、簡単に言わないほうがいい」

 マグカップの水を捨てた。シンクに音を立てて跳ね返った汚れた水は、すぐに流れていく。洗剤をつけたスポンジで擦ると、残った汚れも全部消えていく。

「そうだね、ありがと。篠田のそういうとこ、いいよね」

「別に、普通だろ」

 かっこつけたラインは、あっという間に杏里のもとへ届く。他のひとのラインは数週間溜めっぱなしなのに、杏里とのラインはこんなにも弾む。

「じゃあ、感想会楽しみにしてるね。わたしそろそろ寝るから。おやすみ」

「おう、おやすみ」

 もう朝だぞ、と、またふっと笑ってから、キッチンを出る。ベッドから毛布を持ち上げると、ソファで眠っている香乃にそっと被せた。

 んん、とまた動く。ソファじゃ寝にくいだろう。硬いし狭いし、寒いだろう。隣に腰掛けて、窓越しの空を見上げる。

 朝日は少しずつこの世界を照らしていく。一つだけ光っていた星も、だんだんと消えていく。太陽が一番強くて、みんなその影に隠れてしまう。

 ソファに足を投げ出すと、香乃のぬくもりが感じられる。黒いテレビの画面に、歪な僕たちが映っている。無理に合わせなくていいのに。十八話までたどり着く前に寝ていたじゃないか。そんなことしたって、僕の気持ちが変わるわけじゃないのに。

 静かな寝息をたてる香乃の横で、僕は静かにカーテンを閉めた。

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