私とウイルス
「ご馳走様でした」
手を合わせて、席を立つ。皿を運んで、水道の蛇口をお湯の方に捻る。温まったのを確認してから、皿をくぐらせる。
「ええっかわいそう」
食卓に座る母が言う。
「必要な人だったのに」
先程まで私が座っていたところの隣の席で、姉も言う。キッチンから身を乗り出してテレビのニュースを見ると、ここ数ヶ月ずっと話題になりっぱなしのウイルスで経済的被害にあったとんかつ屋さんの店主が、火をつけて自殺したという。
洗剤をつけたスポンジを泡立たせながら、テレビの音に耳を澄ませる。
その人は、商店街を活気付けるために今まで尽力してきた人らしい。明るくて、みんなに笑顔で、商店街のマップなんかも作ってくれた。まだこれからだったのに。必要とされている人だったのに。私が抜けた食卓は、彼を悼む言葉で満ちていた。
でも私にはわからなかった。
母も姉も、何をそんなに騒いでいるんだろう。必要な人ってなんだよ。偽善のような彼女たちの台詞にちっと舌打ちして、皿を洗う。必要じゃない人だったら良かったのか。そりゃあこういう亡くなり方をしたのはお気の毒だけれど、他の話は関係ないじゃないか。もしかして普段から周りの人のこと、必要か必要じゃないか判断しているんだろうか。洗い終わった全ての皿を水切りかごに放り込んで、荒っぽくキッチンの電気を消した。
「あー莉子、先にお風呂に入りなさい」
「わかった」
私はなんだかむしゃくしゃして、ウイルスのニュースが続くリビングをそっと後にした。
風呂から上がると、リビングのソファに一人で父が座っていた。私はさっきのいらいらもさっぱり洗い流して、のんびりしたい気分だった。そっと横に腰掛けると、テレビはまだニュースを流していた。
「まだニュース見てたの?」
父は無言で頷いた。テレビに映るのは、モザイクのかかった一人の女性。
「私が医療関係の仕事に就いているから、子どもが差別を受けているようなんです」
必死に訴える機械音の混じった声を聞いて、それはかわいそうだと思った。ウイルスに感染する恐れの高い医療現場で一刻も早い収束のために、あるいは一人でも死なせないために働く彼女らが差別を受けるのは、あまりに理不尽な酷いことだ。でも彼女はこうも言った。
「もっと多くの人に、正しく理解してほしい」
それは私にはわからない台詞であった。彼女は何を理解してほしいのか。毎日テレビやネットでただニュースを眺めるだけの私にはわからなかった。でもそれが、医療関係者だからといってウイルスを持っているわけではないことを理解してほしい、という意味なのであれば、私は悲しいと思った。だってそれはつまり、ウイルスを持っている人なら差別を受けても仕方がないと言っているようなものだから。
「早く終わればいいけどな」
先月から在宅勤務をしている父が言う。在宅勤務になってから、家にいる時間いつでも勤務できるようになったからと言って、朝も夜も休日も不規則に働いていて、毎日疲れ切っている。
「元通りの生活に」
そうだろうか。ウイルスが収束すれば、あるいは経済が回復すれば、みんな綺麗さっぱり元通りになるだろうか。このウイルスに関するニュースに身近な人が放った違和感のある言葉や、正義に見せかけた悲しい発言を、みんな無視して、忘れることができるのだろうか。それともこんなことは、私がこのウイルスの被害をそこまで受けていないから言えることなんだろうか。
私は小さくそうだね、と呟いて自室に戻った。スマホからバイブが鳴る。今日の感染者数を告げるニュースの通知に一瞥をくれてやると、電源を切ってベッドに倒れ込んだ。
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