朝の気配

 目が覚めると暗い部屋の中にいた。ぼんやりと辺りを見回して、呟く。

 ここは、どこ?

 何もわからなかった。自分がどこにいて、どのようにして眠りについたのか。自分は何者で、何のために生きているのか。聞いたことのないような男の声が、しんと静まった部屋で震えて、消えた。

 目が慣れてきて、だんだんと部屋の様子がわかってくる。見覚えのあるような、ないような、白い机。なんだかセンスのいい部屋だな、とふと思った。よく整っている。そういえば、僕自身も綺麗好きだったような気がする。

 そこまで考えて、思う。僕、か。僕という呼び方があまりしっくりこない。なんとなく、嫌だなあと思う。じゃあ、と、考える。

 俺、何してんだろうなあ。

 暗い部屋で立ち上がる。伸びをして、カーテンを開いた。窓の外も暗い。でも奥のほうにうっすらと青色が見えている。朝の気配が近づいている。それを見て、ひとつ、ため息。

「あさ…?」

 微かな声。鈴のような、か細い、可愛らしい声。そう、あさだよ。新しい一日の始まり。じわじわと這うように、匂いを伴って迫ってくる。

 振り返ると、ベッドの上には誰もいなかった。そしてまたひとつ、ため息。

 いないよなあ。

 瞬間、青白い腕が脳裏をよぎる。その上の傷を、俺が優しく撫でたことも。大きく息を吸って、吐いた。

 腹が減ったので、台所をうろつく。食べられそうなものは、とっくに残骸だった。仕方がないので水だけ飲んで着替える。少しずつ目が慣れてきて、支度を整える。

 何もわからなかった。自分は何者で、何のために生きているのか。

 彼女がどこへ行ったのか。

 一緒にご飯を食べたいと泣いていたことも、仕事になんて行かないでと喚いたことも、わざと見えるところにばかりつけた傷も、思い出せる。でも、その後、彼女はどうなったんだろう。

 カーテンの外で、朝日が顔を出した。呼吸がまた荒くなってきたので、大きく息を吸う。

 鏡に映った自分の姿。俺は、こんな顔をしているのか。ひどく痩せて、くぼんだ顔だった。こんなひとは、初めて見るような気がした。締めたベルトが緩くて、ずり落ちたズボンを支える。

 なんて、滑稽な。

 もう一度水を飲んで、彼女のつくるご飯の味を思い出した。ああ、と思う。できることならこうなる前に、好きだと、伝えたかった。もう笑顔は思い出せない。

 彼女はもういない。つまらない人生で、それだけが紛れもない事実だ。世界で一番悲しい、そして、強い真実。

 俺は何者なんだろう。その答えが見つかることは、この先もきっとない。

 それでも、清々しい空気を引き連れた朝日に向かって、一歩。

 こうして俺は今日もまた、一日を生きる。

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