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美しい指たち

 ちょっと来なよ。

 ポニーテールって、そっか、馬のしっぽって意味だったな。僕は一心に見つめている。馬鹿みたいにあいた口が塞がらない。左右に激しく揺れる髪の毛はさらさらで、右へ、左へと動くたびに艶々と光が線の上を滑る。水面みたいで、とても綺麗だ。

 華奢なサンダルが廊下を蹴る音が響いている。結構高いヒールなのに、下沼しもぬまさんはよろけることもなく、リズムよく歩く。黒い髪はそのたびに艶めいている。

 ちょっと来なよ。

 教室の真ん中で友だちとふざけあっていたら、このヒールの音がだんだん大きくなって、それから、凛とした声で響いた。みんな、一斉に振り向いた。ちょっと面倒くさそうに寄せられた眉間と、僕をまっすぐ見下ろす視線が忘れられない。

 下沼さんは綺麗だ。

 誰がどう見ても綺麗だ。名の知れたピアノのコンクールでの入賞経験もあって、一年の頃からツイッターでちょっとした噂だった。下沼さん自身はSNSの類をやっていなくて、それもまた、魅力の一つみたいに言われていた。理工学部の他の学科の人も、下沼さんを一目見てみたいとわざと同じ授業を履修したりしていたくらいだ。もう三年生になったから、さすがにそういうのは落ち着いたけれど。

 下沼さんは大股で進んでいく。理工棟を出て、大通りを抜けて、こんな道あったんだというような小さな、緑の中の道を。そして、気がつけばまた大通りに、それも文系の棟が並ぶ方面に出て、その中の小さな、教会の前を通った。

 下沼さんはほんの少し、歩を緩めた。

 綺麗な音が聴こえる。ピアノの音だ。リストのコンソレーション慰めの、たしかこれは、第三曲。

 教会の裏手に回って、下沼さんが言った。

江上えがみくんってコントラバスが弾けるんでしょう」

「え、コントラバス? どうして?」

「そう聞いたんだけれど、違った?」

 綺麗な眉を歪めて、こちらを見つめる。その美しい瞳に観念して、僕は正直に答えた。

「少しだけなら」

 焦げ茶色の瞳に一筋、きらりと光。厚めの唇が動いて、そのとき下沼さんは、一瞬だけ、確かに笑ったんだ。ノクターン調の優しいメロディに乗せて、ほんの一瞬だけ。

「じゃあ行きましょう」

 きびすを返して歩き出す。教会の裏手の、小さな建物の扉を開けた。

栄吾えいご

 呼びかけると、リストが止んだ。

茜音あかね

 ピアノから立ち上がった栄吾という男は、これまた美しい容姿をしていた。儚げな白い肌に目元ぎりぎりまでの長い髪、ぬっと長い腕と脚。グレーの瞳が下沼さんを捉える。

 下沼さんが男に寄り添うように近づいた。ヒールの音が、軽やかだった。スタインウェイの格好良いピアノと美しいふたり。絵になる光景に見惚れる。

「綺麗だよねぇ」

 後ろから声がした。驚いて後ろを向くと、背の小さい女の子がくすりと笑った。

「ま、茜音ちゃんは栄吾くんにべったりだからね、やめときな」

 そんなんじゃ、と言い返す前に、女の子は僕の手を掴んでふたりのほうへと歩き出した。細いけれど、強い指だった。この子も何か楽器をやるんだ、と直感でわかる。

「聞いたよ、江上耀司ようじくん、低音をよろしく!」

「あの、僕」

 栄吾くん、が、僕を真っ直ぐに見た。薄いグレーの瞳に吸い込まれそうになる。

「一緒にやろう」

 目を細めてふっと笑った。僕もつられてちょっと、笑った。きっと僕は綺麗なものに弱いんだ。彼らの音をもっと聴いてみたいと、反射的に思った。

 それで、軽く肯く。

 下沼さんが栄吾くんに腕を絡ませる。ピアニストたちの指は美しい。僕は自分のかたい指を、そっと握りしめた。

このお話は「抜け駆け」「寄り添う音」の続編です。
ほんとうは全く違うお話を書こうとしていたのですが、女の子がどう見ても茜音さまになってしまったので…。こういう女の子が大好きです。こっそり、茜音さまと呼んでいます。


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