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ポピー

 おはようございます。みなさん、朝ですよ。もうすっかりお日さまがのぼって、あたりがよく見えます。坊主頭の少年がやってきて、近くで素振りをはじめました。その頼りないバットに合わせて風がびゅうっと吹いて、私は心も少しだけ、ほんの少しだけなびきます。

 茶色いかばんをゆらして今日もせかせかと歩き過ぎるサラリーマンにいってらっしゃいとささやくと、ちらっとこちらを振りかえった気がします。めがねの奥の瞳があまりにもやさしくて、なんだかどきりとしました。少年のバットはだんだんに加速して、あらい吐息とともにしなっていく。彼が素振りをはじめてから、もう一ヶ月がたとうとしていました。

 それにしても今日はすてきな朝ですね。雲さんも遠慮して、少ししか浮かんでいません。お日さまに会わせてくれてありがとう。さわやかな初夏の一日がはじまります。少年はふうっと汗をぬぐうと、大事そうにバットをかかえて帰ってゆきました。

 あらあら、高校生たちはスカートをひるがえして自転車をこいでゆきます。ジャージ姿の中学生も足早に歩きます。もう新入生も、部活の朝練習になれてきたころでしょうか。少しおくれて歩いてくる制服の子たちも、もうすっかりいっしょに登校する顔ぶれが固まってきたようです。

 ランドセルを背負った小学生もちらほら見えてきました。きいろい帽子がおそろいで、大きい子と小さい子が手をつないで歩いていくのは、いつ見てもかわいらしいと感じます。さっきの少年も、小さい男の子の手を引いてぐんぐん歩いていきます。坊主頭にかぶった帽子が少し、ななめに傾いていました。

 にぎやかな学生たちがいなくなると、いそがしい朝がおわります。のんびりと流れる、少しさみしくやさしい時間がやってきます。

 ここは小さな道角の公園です。すべり台が一つと、鉄棒が三つと、ベンチが二つ。お向かいには神社があって、私たちは神さまと羊雲に見守られながら今日という日をゆっくりと生きてゆきます。しじみ蝶がふわふわと飛んできて、私のとなりにちょこんと座りました。

 「ちょうちょ!」

手をたたきながらてくてくと女の子が歩いてきました。やっと歩けるようになったくらいの赤ちゃんです。おむつをつけた大きなおしりをふりながら、お母さんの手を引いてこちらへかけてきます。

「まま、ちょうちょ!」

私のおとなりのしじみ蝶がやさしく羽をゆすります。女の子は両手を器にして、そっと差し出しました。蝶々がふわりと浮いて、私の肩に止まりました。かすかな、あたたかい重みを感じて、私はのんびり揺れました。

「まま!」

自分の言葉に蝶々が動いたことを誇らしげに、女の子はお母さんを振り向きました。お母さんは、ほんとだねえ、かわいいねえ、と女の子の頭をなでます。女の子は満足げにうなずくと、もう一度、こちらを見ました。

 「あっ」

ずんと大きくふみ込んで、蝶々は飛んでゆきました。肩の重みがなくなって、すーすーして、さみしい気持ちになりました。女の子は空を見あげました。私もいっしょに、空を見あげました。白地に斑点模様のしじみ蝶は、ぐんぐん飛んで、羊雲に溶け込んでゆくように思われました。

「まま」

女の子はお母さんの手をぎゅっと握ります。お母さんがふいに、私を指さしました。

「みいちゃん、見て。お花が咲いているよ」

ぴんと背すじをのばしてみると、むすっとした女の子と目が合いました。蝶々が好きなのでしょうか。せっかくかわいらしい女の子なんだから、はなやかに笑ってほしい。私はおだやかな風にまかせて、花びらをふわふわと揺らしました。

「お花!」

女の子は私を見て言いました。そうだよ、お花だよ、公園のすみで、みんなを見守るお花だよ。ねえ、きれいでしょう?背すじをぴんとのばしてすましてみせると、女の子はたちまち笑顔になりました。ひとさし指をそうっとこちらにのばして、花びらの先にちょんと触れました。やさしく、やさしく触れました。

「まま!」

 お日さまが真上にのぼって、もうだいぶ暑くなってきました。喉がかわく季節です。でも、顔を出して思いきり笑える、すてきな季節です。

 新しくやってきた蝶々を追いかけて、女の子はまた、おしりをふりふり、お母さんの手を引きながら歩いてゆきました。

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