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影法師

 いつもより立体的な雲が細い道の奥に見える。暑い日だった。空は真っ青で、でもどこか薄暗い。涙が滲みそうだ。

 電車の目の前にベビーカーがあって、お母さんの隣の席の女の人がにこにこで赤ちゃんを見つめている。にこやかな人々。あたしは笑えない。この世界であたしとあの人だけが、今、まったく笑えない。

 友だちから届く優しいライン。あの人には慰めてくれる人はいるかしら。雲の隙間から金色の光、目をしかめたら涙がどっと込み上げた。

 愛してくれる人を、同じように愛せないことほど苦しいものはないかもしれない。自分が粉々になったらいいのにと思う。粉々になって、どれが自分かもわからないくらい小さく、醜い部分を全部削ぎ落としていって、最終的に空から降り注ぐ金色の光になりたい。

 インスタを開こうとして、やめる。ユーチューブを開こうとして、やめる。スポティファイを開こうとして、やめる。ゲームを開こうとして、やめる。フォトフォルダを開こうとして、やめる。怖い。手が震える。あたしのせいで、あの人は傷ついた。あたしのせいで、あたしも傷ついた。

 いたずらに傷つけて、何も残らない。別れってこういうものなんだと他人事みたいに感じた。今まで友だちが別れたと報告してきたときにあたしが投げた言葉はなんて軽かったんだろうと思う。

 もう、大きな雲を見て、小さな花を見て、おもしろい動画を見て、綺麗な月を見て、そのことを伝える相手もいない。インスタにあげたあの人の写真は消さないといけないし、失恋ソングは聴けないし、下手くそだなあと言いながら夜中まで一緒に麻雀してくれる相手もいない。頭を撫でてくれる優しい手はもうないし、抱きしめてくれる力強さも愛を囁く声もない。こちらから愛を与えようにも、どこにも届かない。

 それはつまり、ほとんど死んだようなものだ。

 空が暗い。あたしの目が死んだから。お母さんが必死であやすベビーカーから、何も聞こえない。あたしの耳が死んだから。きっと何を食べても美味しくないし、何をしても楽しくないんだろう。五感が全部、世界を拒絶しているみたい。

 最後まで優しかったあの人の「今までありがとう」を聞いてから。

 妙に、雲に影がついて見えるのだ。

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