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そらの、うみの、音色

 ほら、こっちだよ、おいでよって、昼下がりの公園で、声が聞こえた気がしたんだ。さわさわと揺れる草が、歌っているように楽しそうで、僕もわくわくしたんだ。だからさ、行ってみたんだよ、僕。どかんを乗り越えた奥の、林の裏の小道の、そのまたずぅっと先まで。

 そうしたら、何があったと思う?

 君、信じられないだろうな。信じなくたっていいよ。誰もが馬鹿にしたって、僕の宝物だもの。でも、聞いてよ。僕と、あの子の話。


 その子には、足がなかったんだ。

 足の代わりに、ヒレがあった。ヌメっとして、ツルッツルで、小刻みに揺れるヒレ。いわゆる人魚ってやつ?よく知らないけど。とにかくその子は歩けなかったんだ。だから僕、ただ側にいたんだよ。

 「海に、帰りたいの」

リーラというその子は言った。本当に寂しそうに、言った。俯いたまつ毛が震えていた。

「僕が連れて行ってあげる」

だから僕はそう言った。海なんて見たことないけれど、リーラの願いを叶えてあげたいと思った。でも彼女は、悲しそうに首を振った。

「ありがとう、でも、違うの。帰りたいけれど、帰れはしないのよ」

僕はわからなかった。だけど、その薄い透き通った瞳は、少しも揺らがなかった。何か事情があるのかもしれない。僕はただ、この子の側にいようと決めたんだ。

 リーラは切り株に座っていた。時折目をすっと細めて、天を仰ぐ。そして、滑らかに歌う。


 そらのそらのなかに

 およぐひとつ光

 あおのしろのみどり

 きみとあたしの音色


初めて聴く歌だ。彼女のゆったりとした声に合わせて、その大きな瞳が色を変える。


 うみのうみのまえに

 おちるふたつ光

 あかのくろのきいろ

 いきるあたしのなかで


そして、歌い終えると僕の方を向いて、にっこり笑った。

「ねえ、なんていう歌?」

「わからないわ」

「わからないの?」

「ええ、ずうっと昔の歌」

「どのくらい?」

「私がまだ、海にいた頃」

 それから、リーラと僕は他愛もない話をたくさんした。例えば、僕の学校のうさぎの名前がローラだ、とか、リーラの海に生える昆布が臭い、とか、そういう、どうでもいい話。でも、彼女は楽しそうだった。僕もそれを見て楽しかった。時間はあっという間に過ぎた。突然、彼女が言った。

「あなた、もう帰らないと」

「え?まだ、明るいよ」

「私の周りは、ずっと明るいのよ」

「どうして?」

「海に似ているから」

「海に…」

「青い空は、海にとてもよく似ている」

その青い瞳に吸い込まれるように僕が黙っていると、涙を滲ませて彼女が言う。

「もう帰って」

「また会えるかな」

「ええ、だから早く」

「じゃあ、またね」

小さく手を振って、僕は来た道を戻った。別れ際、彼女のヒレが、来たときよりも少し乾いているように見えた。道を戻っていくうちにどんどん日は暮れ、公園につく頃には夜になった。時計を見たら、夜の九時だったんだよ!嘘みたいだよな、だってさっきまで昼だったのに。彼女の話は本当だったんだ。

 次の日も、その次の日も、僕はリーラと他愛もない話をして、彼女に時間を教えてもらって、夜遅くに家に帰った。ままは心配していたけど、僕が楽しそうだったからか、止めなかった。夏休みの間、僕は毎日、彼女のもとへ通った。リーラがなぜここにいるのか、海に帰れない理由や時々歌ってくれるあの歌のことも、そして、乾いていくヒレのことも、何も知らなかったけれど、ただ側にいるだけで、幸せだった。


 でも、そんな幸せな日々は、なんの前触れもなく終わった。


 夏休みがあと三日で終わるという日だった。その日も、僕は公園に行った。そして、同じようにあの子の元へ行ったんだよ。でも、リーラには会えなかった。リーラの座っていた切り株も、その周りの草むらもなかった。代わりに、何があったと思う?

 海だよ。見間違いかと思った。僕は初めて海を見たんだ。大きな海。真っ青な海。空みたいな、海。どこまでも続く青に、僕は目を細めた。

「リーラ、海へ帰ったのかい?」

僕は、僕の目から生温かい何かが溢れ出るのを感じた。耐えきれなくて、海に背を向けた。それでも涙が溢れそうで、上を向いた。そのまま、後ろに倒れ込んだ。

 砂が風に吹かれて、足に当たる。砂浜って、柔らかいんだね。とっても寝心地が良かった。ぼやける視界の中に、僕は空を泳ぐ一つの影を見つけた。

 それはとても、輝いて見えた。

「リーラ…?」

 幻聴かな。歌声が聴こえてくる。いつもの、あの歌。瞳を輝かせながら歌うリーラを思い出す。


 そらのそらのなかに

 およぐひとつ光

 あおのしろのみどり

 きみとあたしの音色


やっぱりあれはリーラだ、と思って、起き上がって涙を拭う。目を凝らしてよく見ると、海の上に誰か、立っているように見える。その背景に、暮れていく夕陽が赤く輝いていた。


 うみのうみのまえに

 おちるふたつ光

 あかのくろのきいろ

 いきるあたしのなかで

 
すっかり覚えてしまった続きを口ずさむ。黒い影はすっと消えていき、日は沈んだ。リーラは海へ帰ったかもしれない。あるいは、死んだかもしれない。どちらにせよ、僕はもう会えないんだ、と思った。


 へへ、これだけ。僕と、人魚のお話。え、それから?僕は夏休みの残りの三日間で、急いで宿題をしたね。そして、僕の夏が終わる。海?ううん、公園ごとなくなったよ。ほらそこの、新しくショッピングモールが建設されているところ。僕が海を見たのは、あれが最初で最後だ。

 信じられないって?そうだろうね。僕も、嘘だったんじゃないかって思うときもある。

 でもたぶん、嘘じゃないんだよ。だって、空を見ているとときどき、リーラの歌声が聴こえるんだ。僕にとっては、あの子と僕の音色、なんだよ。宝物なんだ。この歌、この声、この音色。

 君、どうしたの?海へ行こうって?いやいや。

 僕はもう二度と、海へ行く気はないよ。彼女は僕の中で、生きているからね。

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