見出し画像

西日さす本棚

 色とりどりの表紙が好きなのでブックカバーは好まないのだけれども、僕は物を優しく扱うことが苦手だから本当はカバーをつけてもらったほうがいいのかもしれない。文庫ならまだ小さいからそんなに汚すこともないが、ハードカバーは質感もそれぞれで、せっかくの綺麗な藍色がいつの間にか剥げてしまったりしている。

 表紙が気に入って買った、初めての作家さんのあらすじも知らない本が、電車で持って帰る途中に傷ついていたりすると、哀しくて、切なくて、宝物を壊してしまったような、申し訳ない気持ちになる。

 できるだけ気をつけているけれど、傷ついたり、色褪せたり、いつの間にか本たちは古びていって、見ていて哀しい。でも、僕はそんな古くなった本もまた、好きなのであった。


 「ねえ、この本たち、全部翔の?」

「うん、そうだよ」

「へええ、かわいいねえ。読んでみてもいい?」

そんなことを言ってくれる女の子は彼女だけだった。僕は嬉しくなって、彼女に本のことをたくさん語った。

 この作家さんは表紙に惚れて初めて読んだのだけれど、華やかな表紙のように鮮やかな伏線回収と、それだけじゃなくて、芯の通った深いメッセージ性が魅力なんだ。そしてこっちはね、有名だったから何となく読んでみたのだけれど、優しい言葉選びでずんと重く悲しいお話を書くのが衝撃的ではまってしまったんだよ。それからこれはね…。

 彼女はいつも、普段はクールを売りにしているくせに本の話になると饒舌な僕を見て、ふふふ、と優しく微笑むのだった。

「翔は本が大好きなんだねえ」

そうして、本を撫でる僕の手に、その白く細くなめらかな指をそっと重ねた。華奢な彼女の指と、僕の古びた本が触れ合うと、何とも美しくて、心が高鳴った。


 彼女は本を読んでくれた。

「どれがお勧め?」

なんて聞いてくれるものだから、彼女の感想を聞いては次の本を選んだ。僕の1Kの8畳には、天井に届くような本棚に床が抜けそうなくらいぎっしり本が詰まっていたから、幸い貸す本には困らなかった。僕は雑食だから、色んなジャンルが揃っていた。その中で彼女の反応が一番良かったのは、決まって片想いの本だった。

「女の子はハッピーエンドが好きなのかと思ってた」

「世の中そんなに甘くないでしょう。リアルで、でもこんな恋したことないってくらい情熱的で、片想いなのに羨ましくて、好き」

「羨ましいの?」

「うん。絶対に振り向いてくれないってわかってるのに好きでいられるような強さと、まっすぐな想いに憧れる。それに、片想いなら、終わらないし」

僕にはただ哀しいお話のように感じられていたのに、彼女には違うみたいだった。それがまたおもしろくて、興味深くて、僕は彼女に夢中になっていった。


 「ねえ、翔」

「んー?」

「かーけーるー」

「聞いてるよ」

「顔、あげてよ」

「何?」

僕の1K8畳をより狭めている本棚に寄りかかって、カーテンから差し込む夕陽の暖かい光に当たって、僕をまっすぐに見つめる彼女。透き通って後ろの色とりどりの本たちが見えてきそうなくらい儚い彼女は、哀しそうに眉をひそめて言った。

「こっち、来て」

「どうしたの」

「いいから」

言われるがままに近づいて、細く折れそうな肩にそっと触れる。

「大丈夫?」

 彼女はそっと目を瞑った。ほんのりサーモンピンクに色付いた薄い瞼のくっきりとした二重の線が色っぽくて、僕はどきりとした。それから彼女は、少し控えめに尖った形の良い顎を僕の方へくいっとあげた。触れた肩が震えている。自然に閉じられた、ぽってりと膨らんだレッドブラウンに艶めく唇を見て、僕も震える。ああ僕は、彼女が好きだ。

 空いている左手を彼女の頬に優しく添える。ふっくらと柔らかくて、さらさらとしていて、でも内側から光っているような、不思議な肌だった。彼女の細く長い睫毛の影が揺れる。彼女はなんて壊れそうで弱い存在なんだろう。彼女を見ているとこんなにも哀しく、切ない気持ちになる。この子を傷つけるのは、怖い。

 ごくりとつばを飲み込んで、軽く息を吸う。ぐいっと顔を近づければ、僕の影に彼女がすっぽりと隠れる。吸った息の行き場がなくなって、頬に添えた手が震えて、でも、覚悟を決める。顔を傾けて、目を瞑って、それから…。

「遅すぎ、翔ってば」

ふふふ、と笑い声が聞こえて目を開けると、彼女は目をぱっちりと開けて微笑んでいた。

「翔、好きだよ」

優しい声だった。でも、その目はとても哀しそうだった。

「僕も栞里が好きだ」

大切にしたくてずっと言えなかった気持ちをやっと言葉にしたとき、あまりにも脆い彼女はすっと涙を流した。

「ずっと、好きだったの」


 大切なものは知らないうちに傷ついてしまっていて、優しくすることが苦手な僕は色褪せた思い出をそれでも大事に持っておくことしかできない。彼女とはそれっきりだった。連絡しても返事がなかった。僕が遅すぎたのか、それとも、彼女はいつか終わるものはいらなかったのかもしれない。

 いずれにせよ僕は、あれからずっと終わらない片想いを続けている。時折彼女のお気に入りだった本を読んで、強いわけじゃないのに、と思う。透き通る彼女の記憶が消えてしまわないように、ブックカバーを買ってきて被せた。

 あの儚く美しい存在がもう僕の手によって傷つけられることは絶対にないと思ったら、安心して好きでいられる気がした。

最後まで読んでくださってありがとうございます。励みになっています!