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叙事詩ではなく叙情詩を


明けましておめでとうございます。なんて挨拶も軽々しくできない正月ですね。

このnoteもしばらく動かしておらず、文章の書き方も忘れてしまいましたが、2024年の抱負をここに書いておきたいと思います。

去年は4年振りに日本に帰ってきて、職を得て東京に引っ越し一人暮らしを始めて、ただ慣れるのに精一杯で、やりたいことが何もできなかったな、と言う印象です。

もういい歳だし、そろそろしっかりエンジンをかけて、自分のことも周りのことも前に進めたいなと思います。本当に。

日本に帰ってきて心底感じましたが、この国の写真や芸術を取り巻く環境はクソです。

適当に近所の本屋に入って写真集と名のついた棚を見てみるといい、グラビアが少なくても八割、あとの二割は猫や絶景写真集のようなものしか置いていない本屋がほとんどです。

これはひとえに、業界がサボってきたツケだと思っています。商業写真家は自分の仕事に美を見出そうとず、ただクライアントを満足させてきた。作家は分かるやつに分かればいいと象牙の塔に閉じこもってマスに届ける努力を怠ってきた。

私はどうにかこの状況をひっくり返したいと思っています。みんなで。正直言って自分が今持っている写真の実力と、影響力と、仕事の効率では絶対に無理、だから私に今できることは、目の前のことを一つ一つ吸収していくこと、シリアスになりすぎず、シャレとユーモアを交えながら。

勢いで偉そうなことを書いたけれど、自分の核のようなものを探っていくと、ただ色々な場所に行って、見たことのないものを見て、会ったことのない人と歌い踊り、良い時間を過ごしたいというとても単純なことを望んでいるだけな気もします。

そして大好きな写真という表現方法を使って、そこで何があったかと言う事実をただ客観的に物語るのではなく、そこで生きそこで死ぬ人たちが、何を思い願い、何に泣き笑ったのかを、私という一人称から逃げることなく、語りたいと思っています。

今回タイトルにしたのは、去年見た映像作品の中で最も印象に残っているアニメ「平家物語」の監督、山田尚子さんの言葉なんですけど、私が物語りたいことも、叙事詩ではなく、叙情詩なのだろうと確信しています。

もう一つ引用すると、イスラエルの作家エトガル・ケレットが、昔自身の親父が寝る前に聴かせてくれた物語は、要するに全てこんな性質を持っていたと語っていた言葉も、私が写真に求めるものと近い気がしています。

「どんなに見込みの低そうな場所でもなにかいいものを見つけんとする、ほとんど狂おしいまでの人間の渇望についての何か。現実を美化してしまうのではなく、醜さにもっとよい光を当ててその傷だらけの顔のイボや皺のひとつひとつに至るまで愛情や思いやりを抱かせるような、そういう角度を探すのをあきらめない、ということについての何か。」

エトガル・ケレット『あの素晴らしき七年』

昨年は何もできなかったと書きましたが、尊敬するたくさんの方の写真を撮らせてもらうことができました。本当に感謝しています。

今年もたくさん写真を撮りたいです。気の合う人のことも、合わない人のことも。忙しくしているように見えるようですが、連絡いただければ必ず時間を作ります。安くはないですが、手を抜かずに良い写真を撮ります。何かあれば思い出していただけたら嬉しいです(ギャラは要交渉)。

僕らは気付いたらこの時代にいた。別の時代でも良かったのにこの時代だった。それはただの偶然で、無意味で適当なことで、つまり奇跡的で運命的な事だ。僕は同じ思想に生まれるよりも、同じ時代に生まれることのほうがよっぽど近いと思う。だから、絶対そんなわけないと思いつつも、感情と理屈に拒絶されようとも、こう信じたい。今、たまたまここに生きた全員は、たとえ殺し合う程憎んでも、同じ時代を作った仲間な気がする。

「チ。―地球の運動について―」

今ふと好きな漫画の一説を思い出したので、これも引用して貼っておきます。私が今を一緒に生きる周りの人の写真をたくさん撮りたいという理由は、この言葉が結構近いことを物語っているかもしれません。

私が写真でできることなんてたかがしれているけれど、それでも、それでも、それでも、それでもと、そう思っています。

2024年もよろしくお願いします。

2024.1.4 中目黒の極小ワンルームから Taiga Inami

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