逆ルックバック

ルックバックという人気漫画がある。この作品は読み切りにも関わらず143ページのボリュームがあり、単体で異例の単行本化・映画化に至った。

アレはとても非凡な作品だと思う。そもそも143ページ読ませる構成力が凄いし、4コマを介したIFの魅せ方はとても興味深かった。

アコさん、漫画を技術デモと勘違いしていない?

私とルックバック

3年前、読み切り公開時の初読の感想は大体そんなところである。実際のところ読切漫画に技術デモの側面があることは否めないが、この作品については当てはまらないだろう。
要するに内容自体はあまり刺さっていない。つまらないとは思わないが感動とは程遠かった(ここでの「感動」は狭義のもので、感情を抑えきれず涙を流すタイプのものを指す)。

当時の私はとても落ち込んだ。私には名作の良さが分からないと自分の感性を疑って悩む癖がある。そのときは人生経験の乏しさが原因と結論付け、いつか良さが分かる日が来ることを期待していた。

そして、3年の月日が経ち、映画化を機にリベンジすることを決意した。あまり刺さらなかった作品の映画を見るべく公開3日目に劇場に足を運ぶという異例の事態である。
この間に私も様々な経験をしてきた。多少はありがたみを感じられるのではないか。

リベンジ結果

なんということだ。特に感想は変わらなかった
強いて挙げるなら音楽大袈裟だな〜、というネガティブな点くらい。
これはマズイ。一体何が足りないんだ。挫折か?成功体験か?チームワークか?

いや、小さいものを含めればどれもあるはずだ。なぜ私はルックバックで泣けない?


もしかして、漫画?私に足りないのは漫画を描いた経験か?

そんなとき、あるツイートを思い出した。

極力絵を描かずに漫画を描く方法である。ろくに絵も描けない私でも漫画を描けるかもしれない。試してみる価値はある。

こうして私は漫画を描くこととなった。

本来「ルックバックに感動して漫画を描き始めました!」となるところを、「ルックバックに感動したいので漫画を描いてみます」という逆転現象。これが逆ルックバックの正体である。

過程

先に取り上げたツイートの内容を軽く解説する。

漫画は一般的に
プロット(あらすじ)→ネーム(構成の下書き)→原稿の下書き→清書
の過程を踏む。しかし、このツイートの手法ではネームを省き、直接セリフを原稿に打ち込むところから始まる。つまり、ネームで絵を描く必要がない。

漫画は読み物であり主役は文字であるという主張が腑に落ち、ブクマしていた。今回はこのやり方に従って描いていくこととする。

…もう絵が主役でない時点で早々にルックバックから遠ざかっている気もするが、話を進める。

まず最初に定めることは分量である。

分量…
やることが極端なんだよ藤野ちゃん。4コマの次がなんで45ページなんだ。喜びで筆乗りすぎ。

流石に私には45ページ描く度胸も技量も動機もない。かといって、4コマは馴染み深すぎて目的にそぐわない。正直4コマなんて人生で一度も描いたことない人の方が珍しいだろう。

1ページも逆に難しい。1コマも無駄にしない技量があってはじめてちいかわが生まれるのだ。

となると、4か…
4ならギリギリ漫画描きました感出るし、4コマを膨らませれば良いし、Twitterにも合っている。4ページ漫画に決定だ。
割とあっさり決めているが、この時点で既に「4ページも描くの?勘弁してくれよ…」と及び腰であった。

分量が決まれば次はネタであるが、夏っぽい話を考えたら割とすぐ出来た。というかツイートしようとしたことを漫画にしただけである。

そしてセリフのパートである。とりあえずセリフを打ち込んで…

これで漫画になるのか…?
不安になるも、とりあえず作業を続ける。
フォントを変えてコマ割りして…

あーこれは、これはもう漫画ですよ先生。手のひらクルックル。アンチックすげ〜〜


ここでちょーっとだけフォントの話をさせてくれ。

アンチックはよく漫画で使われるフォントである。明朝体に似ているが比べてみると明らかに太い。漫画では仮名のアンチックに漢字のゴシックを組み合わせて使われる(アンチゴチと呼ばれる)。

上:中見出しアンチック(KF-A)
下:石井中明朝体OKL(MM-A-OKL)
引用元:亮月製作所*書体のはなし・アンチック体(http://ryougetsu.net/sho_antique.html)

以前から漫画のフォントは重要だとは思っていたが、実際やってみるとかなり違っていて面白い。最近はあまり見かけなくなったが、デフォルトのフォントのみで構成された漫画をネットで見かけるたびに悲しくなっていたのを思い出す。

フォントの効力は凄まじい。
以前ジャンプが頻出フォントの特集をやっていたことがあった。これを見るとフォントだけでもジャンプ感が滲み出ていることが分かるだろう。広告で流れてきた知らない漫画の出版社がなんとなく分かった経験があると思うが、そういうときは大抵無意識のうちにフォントで判別していたりする。

フォントの話ここまで


正直コマ割りまではとんとん拍子で進んだ。4P合わせて3時間程度。しかし、ここからが本番である。絵だ。

描けそうな絵とか必要そうな絵を入れていくと…

うーむ、ラフを入れるとほぼほぼネームだ。ネーム作ったことないけど。
…アレ、1ページ目でもう述べ3人。助けてくれ。

4ページ、ありとあらゆる方法で作画の手間を省いたが、どう頑張っても8コマは本気で描く必要があった。
8コマくらい描けと思うかもしれないが、実際描くとなると数字以上に手間がかかる。何と言っても別のコマで同じキャラと認識してもらえるくらいには統一感を出さなければならないのだ。
千と千尋のハクが次のコマではNARUTOのマイト・ガイになっていたら読者は混乱してしまう。

ただでさえ人間1人描くのにヒィヒィ言っている私が、キャラの描き分け…?一体なんの冗談だ。

しかも、ここから下書きして清書していくのだが、その過程を何度も見せても仕方ないので撮れ高(書け高?)がない。当メイキング的にはフォントをアンチックに変えたときの衝撃がピークである。
それに既に1ページ目を3回も貼っているのでもう見飽きただろう。

こんなに手間がかかるのに…?撮れ高なくて…?しかも下手な絵は入れれば入れるほど安っぽく見える…?馬鹿も休み休み言わなければならない。

私はなんで漫画を描いているんだ。どうかしているぞ。ルックバックはnot for me、それで良かったじゃないか。
そう考えながら手を動かすこと20時間強。ついに完成したのがこちらである。

…?読み返しすぎて正直何も分からん。
読み物として成立しているかどうかも確証が持てない。
マジで労力と成果が釣り合ってなさすぎる。描くもんじゃないね。

とりあえず描いてみての感想を述べる。
いきなり改善点から始めるが、全体的に白すぎる。 ぱっと見の印象を良くするためには効果を駆使して密度を上げることが重要に思える。実際4ページの中で一番耐えているのはグラデを入れた4ページ目だろう。
言い訳をすると、トーンや効果線は人間を描き終えて疲れ果てた私が手に負える分野ではなかったのだ。そもそも2値で描くための素材であるトーンをグレースケールで描いた原稿に使って良いものかもよく分からず、目を背けざるを得なかった。無彩色は難しい、これに尽きる。
あと構図も良くはない。ただ喋ってる奴のバストアップが続いているだけでは漫画である意味が薄い。そもそも絵で説明すべき状況がないので話から漫画向きではない。
自信持って褒めるところがあるとすれば「起承転結を守ってて偉いね」ぐらいのものである。
感想終わり

藤野ちゃん、いや、藤野先生がやっていた本、パースとかデッサンとか普通の美術の本ばかりで漫画についての本はなかったような気がするんだが。もし仮に純粋な画力以外足りてたんなら藤野先生はマジモンの漫画の天才である。そりゃそうか、ジャンプ作家だもの。

ルックバックをなぞる

別に藤野先生が漫画が上手いだなんて分かりきったことを再確認するのが目的ではない。私の漫画の出来もどうだって良いのだ。
ここからルックバックの話をなぞり、共感し、涙を流すことが目的なのだから。


たとえば、知り合いの京本’(ダッシュ)がルックバックに感動して4p漫画を載せていたとする。その出来が凄まじいものだったとしよう。

私のものと比べた人がこう言う。
「アコの絵ってフツーだな」

やりなおし。土台がない。私の絵が褒められる出来ではないことなど分かりきっている。ここでは私が一番落ち込むであろう言葉に置き換える。

「アコの漫画?あー、なんか頑張ってたね。でもまだ読んでないわすまん

落ち込んだ私は人に読まれるために漫画の描き方を懸命に学ぶ。これまでの数十倍の労力をかける。
しかし、いくら頑張っても技術は伸びず誰も読んでくれない。疲れ切った私は漫画を描くのをやめてしまう。

しばらくした後、京本’と話す機会があった。すると京本’から
「アコさん、なんで漫画やめちゃったんですか?私読んでたんですよ」
と伝えられる。

それを聞いた私は雨の中喜んでスキップ…

しないよ。もう全然違う話になってしまった。アコ版ルックバック、打ち切りです。


最初から全部間違っていた。いや、薄々分かってはいたが、ルックバックは創作を続けている人に刺さる作品であり、一度ごっこ遊びをした程度で泣けるような話ではないのだ。もっと言えば感想などのフィードバックを受けて影響を与え合う中で、創作が自身のアイデンティティになっていることが望ましい。

もちろん感動に必ずしもそういった経験を要するわけではない。しかし、逆の立場ならそれを補うほどの共感性が必要である。
やや循環論法的になってしまうが、私には何かに深く感動した経験もないので理解はできても共感ができない。作り手受け手どちら側にせよ、創作の持つ凄まじい力を体験していない。「そういう人もいるのだろう」止まりである。
感動した経験がないから共感できず、共感できないから感動できないのだ。

これで確信した。私は創作物をある種冷めた目で見ているのだ。情熱から程遠い場所で生きている。

別にこれは斜に構えているわけではなく、私の好みの問題なのだと思う。何も共感できない代わりに、自分とはかけ離れた人を眺めるという楽しみ方も悪くない。
改めて言語化すると、とても負け惜しみ感があるが。

この作品の主題はおそらく努力の尊さなどではなく創作の持つ魔力あたりである。創作をアイデンティティとしている人間の異質さを眺めるだけで十分だ。泣きはオプションであると割り切ってこれを結論とする。

念の為、努力の尊さについても言及しておくが、ごっこ遊びをするまでもなく創作の裏には夥しい量の努力が積み上がっていることはよく知っている。ただ、そこに敬意こそあれど、作品の捉え方が変わることはない。
そこにはクリエイターは裏方だという認識がある。私は作品と労力を切り離して考えることが敬意だと考えている。
先ほどの例えで私が周りから褒められていたとしても、あるいは、ただ単に今回描いた漫画が誰かに褒められたとしても、読者にとって漫画は読めて当たり前・面白くて当たり前なのだから安堵こそすれ自信には結びつかないだろう。ごっこ遊びにしてはそこそこの労力を割いた後だというのにこの消費者視点は変わる気配がなかった。

この根本的な考えが変わらない限りは、創作はアイデンティティになり得ずルックバックに共感することもない。

まとめ

それにしても私はこの作品に対して随分と誠実に向き合っていると思う。
順張りで「描いてみて分かったけど漫画家さんは凄い!ルックバック泣ける!」とか、茶化して「こんなセンスのない漫画を描く俺にはルックバックの良さなんて分からなくて当然でした!ガハハ」とかで締めることも出来たのにそれをせず、実際何も変わらなかったと述べているのだ。

おかげで今回もオチが弱く、収まりが悪くなってしまった。

最後にスペシャルサンクスとして改めて参考資料を紹介したい。

秋雲先生の意識の低い人向け漫画の描き方講座DX
浅野和成

https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=735733

載せたツイートの漫画を含む4つのトピックが掲載されている。まずはpixivで無料公開されている3つを読んでみてほしい。

  • 基本的な描き方について

コロコロの巻末に載ってる漫画講座を昔読んでいたが、安易にトーンを背景に使うことを咎めていた記憶があるので目から鱗であった。

  • フォントの選び方について

MSゴシックは安っぽいとバッサリ切り捨てていて共感の嵐。私もこういう共感はできるらしい。

  • 文字のサイズについて

これを読んで文字の間隔を修正したらかなり読みやすくなった。

DX版にはこれらに加えて場面ごとにおすすめのフォントを紹介した描き下ろし漫画が載っている。

そしてもう一つ参考資料というか、参考ツイートを載せる。
96こげ氏のマシュマロ回答ツイートである。

端的に言えば絵に拘らなくても漫画は描けるという内容である。これを読んでいなかったら陰影とシワに苦戦して作業時間をもう10時間ほど増やしていただろう。

ついでに補足すると、今回はアイビスのブラシであるやわらかGペンを使用したが、別に漫画だからってGペンを使う必要もなかった。狙った位置に線を置くことすらままならないのに太さの強弱なんか意識していられない。描いた後消しゴムで太さを均す作業、マジで無駄だった。

そういえばムラッセも製図ペンとマジックを買えと言っていた。描く前にこれを思い出しておけば最初から硬めのペンを使っていただろう。

はい。じゃあ終わりにします。

ご愛読ありがとうございました!
アコ先生の次回作にご期待ください!


おまけ

一応4コマも描いた。没にするつもりだったけど貼っとくね。

今度こそおしまい。

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