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家族史調査を通しての家族再統合のオルタナティブの試み

家庭での虐待に児童相談所が介入する場合、家族再統合がひとつのゴールとして目指されているそうだ。

親子間の関係が修復されて、子どもが安心できる家庭が生まれればそれに勝ることはないといえるだろう。
しかし、児相の介入により一時保護されて、家庭に戻された子どもが以後も虐待を受け続けることは珍しいことではない。
虐待死することなく成長して、虐待家庭から生還した、「脱出」することに成功した子どもは、自分なりに元いた家庭との関係を評価し価値判断する。虐待親をそのままの姿で赦し受け入れると決める子どももいるだろう。
他方で、虐待親とは一切連絡を取らず、絶縁することを決める子どもが少なくない。

こうして自分なりに決着をつけて判断を終了したはずのつもりでいても、それらの判断を事情を知らない人にあらためて説明をする必要に迫られるのは、骨が折れるものだ。想像するだけで気が重くなる。
なぜ毎回話の脚色や方便を考えなくてはならないのか。
職場や友人間での何気ない会話で、実家には帰らないのかと悪気なく聞かれたとき。映画や小説、アニメでの何気ない団らんの描写に触れたとき。
何らの非難にも値せず、配慮しろだやめろだなんて言うつもりは毛頭ない。
そうではなくて、ただ疲れるだけなのだ。

自分の決断は間違っていないとは確信している。ただ、頻繁に同じ論点を提示されて付き合わされる度に心がトゲトゲするのが不快なだけだ。
このトゲトゲした心への対応のために、虐待家庭への心構えへの第三の道として、やや突飛に聞こえるかもしれないが家族史の作成を経験上提案できる。

家族史の作成のため、公文書類を取り寄せると、少なくとも5世代程度は先祖を遡ることが期待できる。
今は亡き先祖の足跡を辿り、人生上の重大な決断を彼らが迫られたとき、どう行動したか。そこでの真摯な姿に触れて、新鮮な驚きを感じることができる場合がある。

あるいは、親族とも言えない遠い縁者から思わぬ歓迎を受けられる場合がある。虐待家族は家族史の作成の活動を一笑に付すかもしれないが、血縁が遠い人の親切に触れることはかけがえのない経験になるだろう。
遠縁の人に連絡が付かなくとも、調査の過程で出会う郷土史家のような専門家の方の親切に触れられることもある。

このような経験から、呪いや桎梏とばかり捉えていた自分の苗字に新たな側面が浮かび上がることもある。家族が大切だ、などと押し付けてくるタイプの人間に対する苛立ちも少しは緩和されることもあるのだ。

ひとつ留意点があるとすれば、子ども自身が主体的に関わらなければ果実を得ることは難しいということがある。もちろん、役所に問い合わせや申請書類を提出するときに専門家の助力を得ることは何も問題はない。古い毛筆の書類を読み解くのは子ども独りでは心が折れてしまう場合が多いだろう。
しかし、ある書類1を取得して、家族の生きざまについて仮説1を立てる。仮説1を元に新たな書類2を請求して取得する。書類2をもとに仮説1を修正して仮説2を立てる。仮説2をもとに専門家に問い合わせをして仮説3を立てる。という過程の中で今は亡き先祖と対話した気持ちを得ることができ、その体験こそがかけがえのないものであることは忘れてはならない。


また、先祖の調査について、数十万円を支払って業者に一任するサービスもあるようだけれど、調査の過程こそが重要なので、子どもの先祖調査を支援する立場の方には、あくまで子どもが調査の主体であることを忘れず、無理せずにひとつひとつステップを踏んで仮説と検証を繰り返す会議を子どもと頻繁に実施することの大切さを強調したい。
こうした会議の中で、先祖の名前を何度も口に出して話していると、一種の言祝ぎのようになって、単なる文書上の記録ではない血の通った存在として個々の先祖が浮かび上がってくる。
そこから子どもの家族像に影響がある果実が得られると思われるので、支援はともすると文書の解読に意識が向かいそうではあるけれども、子どもと時間をかけて対話をすることにも留意していただきたい。


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