見出し画像

ジェッソを使ってみた

2回目のアート会へ参加の機会に恵まれた。
今回も、題材はその場で決めた。前回はその日の会の直前に食べたカツオのたたきを題材にしたこともあり、それを踏襲して今回も直前の昼食のちらし丼を描くとするとなかなか難度が高そうだしどうしたものかなと思っていた。しかし、その場で携帯端末の画像を漁ると、先日自宅の玄関先にいたオオミズアオ(おそらくメス)の姿が飛び込んできたので、それに即決した。白っぽいエメラルドの羽を前回と同じくパステルで描いてみた。前回習った影を付ける点も意識した。
とくに何も下書きをしなかったので、向かって右側の羽が小さくなってしまったけれども、一度絵を上下逆に置いてバランスをチェックする方法を習い、練り消しを使って背景を一部消して修正ができた。上下逆にして視るのは、眼前のオオミズアオとして描かれたモノをオオミズアオという記号としてというより純粋にその姿形に集中して観察する趣旨なのかなと思った。
オオミズアオの美しいエメラルドの羽には、左右にひとつずつうっすらと黄色の小斑点が付いている。小斑点を描くときは、黄色のパステルで画面を軽くトントンッと叩くのみである。わざとらしく強調する必要はない(強調したい人は強調してもいい。)。それだけでヒトの眼は、そこの小斑点をきちんと認識してくれると信頼できることが心地良い。学校の学科科目のペーパーテストに文章で答えるような場合にはそうはいかない。配点箇所について、それと認識して応答していることを分かち書きするなどの手段で強調して答えるよう指導される。読み手が気が付かないようなわかりにくい文章の書き方をしてしまったときは書き手の責任とされてしまう。絵画と文章とでは、このあたりの責任分担の分水嶺の位置が少し違うように思われる。

オオミズアオが完成する頃、友達の作っていた写真立てもひと段落していたらしかった。友達は、白いジェッソに軽質炭酸カルシウムを追加したもので、木枠の部分にたくさん突起状の装飾を作っていた。
ジェッソGESSOは、一般に「下地を作る」のに使うものだそうだ。この「下地を作る」という発想にはあまり馴染みがなかった。学校で使った水彩絵具なんかは、絵具に色素の他に画用紙への定着を担当するものも最初から含まれている?ためにあまり支持体への定着について考える必要はなかったらしい。友達の写真立ては、画用紙のような絵具を載せることを想定した支持体ではない天然の素材である木材を材料としていて、これにもし絵具で色を載せようとするとジェッソ等で下地を作る工程を経ないと具合が悪いらしい。下地を作るという工程は、紙やすりで木材の表面を削った上(木材を水で濡らすと繊維が立ち上がってやすりの効果が上がる)でジェッソを塗る。平滑な画面を作る場合は、3回くらい繰り返しジェッソを塗るとよいそうだ。遠い空や水面を描くときは平滑な面、近くの地面なんかを描くときは凸凹があるという使い分けをする方法もあるそう。絵画を描くという行為は、無数の選択の連鎖だと思う。個々の選択の結果について、体験的に理解し記憶した先の取捨選択の総体を「自分の表現」と呼ぶのかもしれない。
さて、友達は、板パネルについてはジェッソを下地を作る用途で全面に塗っていたが、写真立てに関しては突起状の盛り上がりを作るために使っていた。私も画面に盛り上がりを作る絵肌、マチエールというものが面白いと思ったので、それに合ったとんかつ(先日食べた、大塚・美濃屋の特選ロースかつ定食)の画像を携帯端末から探し出して次の題材にすることに決めた。マチエールへこだわることができる点は、デジタルよりもアナログで描く方が今のところ優れているといえるかもしれない。
とんかつを描く紙は、黄ボール紙(馬糞紙)というハードカバー本の裏表紙に見られる厚いものを選定してもらった。最初は私はマーメイド紙に描くつもりでいたのだけれども、マーメイド紙は反ったときにジェッソが剥がれ落ちてしまいやすいことに描き終わってから気が付いた。これまで様々な性質を持つ紙からひとつの紙を選定するという習慣にも馴染みがなかったので、このあたりも今後の課題といえそうだ。水張りなんかも未経験なので、いつか挑戦してみたいと思う。それにしても、馬糞紙とは一度聞いたら忘れられない名前だ。他の参加者の方とウマ娘の話題が出ていたので尚更楽しかった。
とんかつは、カツの揚げ衣の部分にジェッソを厚く塗り、ときに丸めたティッシュで叩いてガサガサした感じの表現を目指した。そのうえで水彩絵具で着色した。背景となる黒い皿は描かなかったが、紙が白くないこともあってあまりそこは気にならないように感じた。運搬中にジェッソが一部欠けて白い面が出てしまっている部分もあるけれども、揚げ衣らしさはある程度は狙い通り表現できたように思う。

千切りキャベツについては、終了時間が間近になってしまったこともあり、苦し紛れに絵筆を逆に持って柄の部分で引っ掻くように描いてみた。千切りキャベツのような、あるいは樹木の個々の葉や前回のアート会のカツオのたたきでいうならネギのような細かなモノの集合体については、こういう風に描こうという決定が自分の中には未だ確立されておらず今後の課題と思う。このような細かなモノについては、私は集合としてぼんやりと把握していて、個別の要素についてあまり注目しない習慣を持っていることから、写実的にひとつひとつ描き写していこうという気持ちにはなかなか素直にならない。英語でも不可算名詞のleafやmachineryといった表現があることから、このような習慣はとくに異例なものではない気がしている。このため、絵を視る他者もまたそのような習慣を持っているように思われ、詳細な写実だけが正解ではないように思われる。ぼんやりと集合体を見ているときのぼんやり感を画面に表現する技法があるのではないかと想像している。
もう一つ課題と感じていることとして、影への感度がある。カツオのたたきもとんかつも、飲食店内の複数の照明や窓の外からの陽光で照らされていて、私にとっては、光源の場所がいまいちよくわかっていない気がしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?