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山手線の駅名の由来をまとめてみた。


地名の由来大好き男、えいきちです。

今度東京に遊びに行くのですが、その際に絶対に使うであろうJR山手線。
今回はJR山手線全駅の、駅名の由来をまとめてみました。
関西の私鉄やJRの駅名の由来はまだnoteには載せていませんが(過去に個人的に調べ済み)、先に東京を攻めてみたいと思います。
由来だけではなく、ちょっとした情報や小ネタも載せていますので、興味ある方はぜひとも読んでください。
Googleマップを見ながら読むと、より面白いかもです。

(実際は東京旅行の前に書き始めていたが間に合わず。大阪に帰ってから完成しました。)



※紹介順は内回り

https://rp-tj.blogspot.com/2020/02/yamanoteline-map.html


●東京(とうきょう)

(千代田区)

1914年(大正3年)、すでに営業していた新橋駅と上野駅を結ぶターミナル駅として開業されました。

「東京」はずばり「東の都」という意味。
大政奉還の後の1968年(慶応4年)7月に出された、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」の中で、「東京府」の設置を発表。
以後、「江戸」は「東京」と呼ばれることになります。

鉄道の歴史がスタートして40年近く経過して出来た駅ですが、皇居の真ん前に作られた「天皇の駅」であるという事と、新たなターミナル、象徴的な駅という位置づけからして、この時浸透し始めていた「東京」の名が付けられたことは想像に難くないですね。

ちなみに過去に書いた東京遷都についてのnoteはこちらです。


●神田(かんだ)

(千代田区)

1919年(大正8年)開業。

そもそも「神田」という言葉の由来は、神社に稲穂を収めるための田んぼを神社自身が所有する、いわば領田のことで、「御田みた」「御戸代みとしろ」とも言います。
この地には伊勢神宮が所有する神田(御田みた)がありました。
まあわかりやすく言うと、「神の田んぼ」があった街なんですね。

有名な神田明神は、神田の地を守る為に作られた神社です。

「外神田」「内神田」「神田神保町」など、神田という地名を冠した町名はたくさんありますが、神田駅があるのは「鍛冶町」です。おもろい。

神田地区のど真ん中を流れているのが、南こうせつの歌った「神田川」で、北に渡ると秋葉原があります。


●秋葉原(あきはばら)

(千代田区)

貨物駅として1890年(明治23年)開業。
JR東日本の駅があるのは「外神田一丁目」です。
ちなみに神田明神の最寄りも秋葉原です。神田より神田ですね。

電気街、オタクの街として有名な秋葉原ですが、もともとの呼び名は「あきばはら」でした。

この地は度々火事に見舞われる場所で、1869年(明治2年)の大火をきっかけに、当時の明治政府が約9000坪の火除け地を作り、そこに鎮火社を建てます。
火の神、水の神、土の神の三神を祀った神社でしたが、当時の人々は、火除けの神である神仏習合の神「秋葉大権現」(静岡県の秋葉山が発祥)が祀られていると思い込み、「秋葉社」の名前で誤って広まり、「秋葉様」「秋葉さん」の名で親しまれることに。
「秋葉原」とは、「秋葉社の原っぱ」が語源なんですね。

その後、正式に「秋葉神社」の名前になるわけですが、「秋葉原」の読み方のターニングポイントは、駅が出来た1890年(明治23年)。
駅の正式名称は「あきはばら」に決まります。これ以降、「あきはばら」が主流になったそうです。

誤って付けた説や語感がいいから説などありますが、そもそも静岡の秋葉山が「あきはさん」なんで、まあ別にいいんじゃないですかね。
でも「アキハ」ならAKH48になってましたね。チームH所属のまゆゆとゆきりんになってましたね。『チームH推し』って曲になってましたね。

それと、オタクを象徴する“アキバ系”という言葉のルーツが静岡にあるっていうのもなんか面白いですよね。


●御徒町(おかちまち)

(台東区)

1925年(大正14年)開業。

町名としては現在無くなっている「御徒町」ですが、この地は江戸時代、将軍に直接面会出来ず、馬にも乗ることも許されない下級武士が住む町でした。
彼ら下級武士のことを徒士かち」(御徒おかちと言いました。徒歩で戦うから「徒士」なんですね。
さすが、武士の街・江戸ですね。

下級武士の彼らは、生活費を稼ぐためにあらゆる内職をします。その中から有名になったのが朝顔の栽培。
それが現在、台東区入谷で行われる朝顔まつりにつながっているそうです。


●上野(うえの)

(台東区)

埼玉や栃木方面に向かうターミナルである上野駅は、旧・日本鉄道(私鉄)の駅として、1883年(明治16年)に開業。
かつては東北新幹線や上越新幹線の起点になるなど、古くから東京の北の玄関口として親しまれています。

「上野」という地名の由来は諸説あります。

地理的要因だと、
小高い丘の上に野原が生い茂っていたから「上野」
・近くにある下谷したやに対しての「上野」

人名や逸話によるものだと、
・公家の小野篁が、上野国こうずけのくに(現在の群馬県)を訪れ、京に帰る途中に寄った説。
・この地に大名・藤堂高虎の屋敷があり、地元である伊賀上野の土地に似ているから「上野」と呼んだ説。

などがあります。
なんとなく地理的要因が有力な気がしますが、僕が行ったことがあり馴染みがあるという点で、伊賀上野説を推したいです。

ちなみに、江戸城の鬼門を守る為に作られた上野の寛永寺は、比叡山延暦寺に見立てて作られたことから「東叡山」と呼ばれています。
すぐそばにある不忍池しのばずのいけは、琵琶湖に見立てられたそう。
やっぱり天皇がいる京都のありがたみってデカかったんですね。


●鶯谷(うぐいすだに)

(台東区)

1912年(明治45年)開業。
JR東日本が発表した2022年度の利用客数は21,112人と、山手線の中では高輪ゲートウェイ駅に続いて2番目の少なさを誇る駅です。
でも、高輪ゲートウェイ駅が2020年の開業ということを考えた時、実質ワースト1とも言えるこじんまりとした駅ですね。

「鶯谷」という地名は存在していません。
駅の西側は上野恩賜公園で覆われていて、“ほぼ上野”と言っても過言ではない場所ですが、駅の所在地でもあり、正式な町名は「根岸」です。
ここにはかつて、正岡子規を初めとする文豪や、林家正蔵などの落語家が住んでいて、文化人の街として有名だそう。
ですが、今はラブホテルや風俗店が軒を連ねる面白い街ですね。

地名の由来は、寛永寺に京から派遣された皇族の住職が、「江戸のウグイスはえらい訛ってはりまんなあ」と言い、京から連れてきたウグイスをこの地に放ったことで、ウグイスの名所になったことからきているそう。
いかにも京都人らしいエピソードですね。笑


●日暮里(にっぽり)

(荒川区)

1905年(明治38年)開業。
足立区へ向かう、「日暮里・舎人ライナー」の始発駅ですね。
舎人(とねり)って。難読すぎる。

かつては「新堀にいほり」という地名でしたが、江戸時代、高台が多く富士山や筑波山なども見え、さらには桜やツツジが咲き乱れる風光明媚なこの土地を、「一日中過ごしても飽きない、日が暮れるのも忘れる里」だと人々に愛されることに。
そこから「日暮らしの里」と呼ばれることになり、いつしか字が当てられ「日暮里」という表記になったそうです。

素敵すぎる。観光地のキャッチコピーとしても完璧やし。
ほんで最初に言ったヤツ有能すぎる。

ちなみに、中村雨紅という教師が日暮里の小学校に赴任した時に作られた曲が、有名な童謡『夕焼け小焼け』だそうです。
素敵すぎる。めっちゃ街に合ってるやん。


●西日暮里(にしにっぽり)

(荒川区)

1971年(昭和46年)開業と、高輪ゲートウェイ駅が出来るまでの約50年に渡って、山手線では一番新しい駅でした。
地下鉄の乗り継ぎのためにという理由で新設されたので、日暮里駅からは約500mしかありません。

「日暮里」の「西」なので、「西日暮里」。
駅の所在地も「西日暮里」にありますが、実は「日暮里駅」も「西日暮里」にあります。
現在、「日暮里」という町名はなく、「西日暮里」と「東日暮里」だけがこの地に残されています。


●田端(たばた)

(北区)

山手線の最も北に位置する駅で、1896年(明治29年)に開業。
一見すると地味な駅ではありますが、実は山手線の正式路線は、品川を起点に、池袋経由で田端が終点となっています。
東京ー品川間は東海道本線、東京ー田端間は東北本線なので、“大枠としての山手線”に含まれてるって形なんですね。
歴史自体も東京駅よりも古いし、大事な駅ですね。

「田んぼの端」に集落があったことから、「田端」と名付けられたようです。「田畑」と記載された史料も多く見つかっているので、要するに田んぼや畑がいっぱいあったところなんでしょうね。予想通りです。

芥川龍之介や菊池寛、竹久夢二や萩原朔太郎等が住んでいた、「文豪の街」としても知られていたり、最近では駅の南口が映画『天気の子』に出てくるなど話題になっている駅です。


●駒込(こまごめ)

(豊島区)

山手線が今の形になってから、利用客の増加により増設される形で1910年(明治43年)開業。

地名のルーツは古く、最初に現れた記述は戦国時代ですが、もともとは日本武尊ヤマトタケルノミコトが東征の際に、近くの林にいる味方の軍勢を見て、駒込こまごめめたり、、!」(馬、めっちゃおるやん、、!)と言い放ったとされ、それ以降、この林を「駒込林」と呼ぶようになったそう。
日本武尊さんがいいリアクションをしてくれたおかげでこの名が付いたんですね。

ちなみに駒込駅の発車メロディーは「さくらさくら」。
これは駅の北西に、造園師や植木職人が多く住む「染井村」という村があり、彼らがよって生み出された桜の品種が「染井吉野(ソメイヨシノ)」になったことから来ています(「吉野」は奈良にある桜の名所)。
ソメイヨシノ発祥の石碑が駅の近くの公園にあるそうです。


●巣鴨(すがも)

(豊島区)

1903年(明治36年)開業。

「おばあちゃんの原宿」として知られる巣鴨地蔵通商店街がある巣鴨ですが、かつては現在の池袋ぐらいまでの広い範囲を「巣鴨」と呼んでいたそうで、大きな町だったんですね。

「巣鴨」の由来は、この地にあった大きな池にが群れて棲んで、たくさんを作ったことから。
まあ、大体予想通りですよね。

他にも、石神井川しゃくじいがわの「洲に向き合った場所」という意味の、「洲処面すがも」の説もあるみたいです。
水面みなも」の「も」パターン。
「菅面」の表記もあったみたいですね。こっちの方がカッコいいと思います。


●大塚(おおつか)

(豊島区)

田端と目白を最短で結ぶために作られた駅で、巣鴨と同じく1903年(明治36年)開業。
都内に現存する路面電車、都電荒川線と乗り変えが出来る山手線唯一の駅です。
そのこともあってか、かつては百貨店もあるなど、隣の池袋よりも栄えていた繁華街だったそうです。

開業当初は、当時の町名から「宮仲駅」になる予定でしたが、近くの大きな集落である「大塚」の名前を採用。
その影響から、駅周辺には後に「北大塚」「南大塚」の町名が付きます。
ちなみに大塚駅より後に出来た、東京メトロの「新大塚」は、文京区にある“本家”の「大塚」にあります。面白いですね。

そのまんま、「大きな塚(古墳)」があったから「大塚」になったそうで、その古墳のあった場所は、文京区大塚1丁目の学校になっています。


●池袋(いけぶくろ)

(豊島区)

現在4社8路線が運行し、東京北部や埼玉方面からの利用客が多い巨大ターミナルである池袋駅は、1903年(明治36年)開業。
田端ー目白間をつなぐ目的で巣鴨、大塚と同じタイミングでスタートしました。
本来なら直線距離で目白に向かいたかったものの、周辺住民の反対により、当時何もない農村地帯だった現在の池袋が選ばれました。
なので、線路のカーブはそういう理由で生まれたそうです。

関東大震災の影響で、郊外に人々が移動したことや、その影響による闇市により発展した池袋。
その後、西武百貨店と東武百貨店が出来るなど、時代を追うごとに、何もない土地から繁華街へと成長していきました。
ちなみにビックカメラは池袋が本店、PARCOは池袋が1号店です。

「池袋」の由来には、かつて存在していた、袋のような形をしたという「袋池」からきている説と、袋状の盆地の中に多くの池があったという説があります。
袋の形をした池、ってなんかピンときませんね。笑


●目白(めじろ)

(豊島区)

1885年(明治18年)の3月16日、目黒駅と同時に開業。
「白黒」一緒です。

山手線全駅の中で、複数路線が乗り入れていない単独駅は、新大久保駅とこの目白駅だけです。
大久保駅が近隣にある新大久保駅とは違い、他社線への乗り換えが徒歩で10分ほどかかる目白駅は、人身事故などが起きた緊急時に困ることから、“陸の孤島”と呼ばれることもあるそうです。すごい言われよう。笑

ただ、高台にあり日当たりや眺望もいいことから、明治維新後は華族や実業家が住むようになった目白。
駅すぐそばに学習院大学も出来るなど、そういった流れで高級住宅街として発展を遂げてきたので、単独駅で利用客数も少ないながらも、それが逆に孤高の存在感を放っていますね。

「目白」の由来ですが、徳川家光が鷹狩りで訪れた際に、「目黒の逆で目白」と言った、などの説がありますが、それだけじゃなんか味気ないですよね。笑
家光は、江戸の街の鎮護のため、中国の五行思想に基づいて考えられた江戸五色不動を定め、あらゆる方角にある不動尊に、白、黒、赤、青、黄と振り分けます。
その一つが目白不動尊になった、というわけです。現在の金乗院というお寺に祀られています。


●高田馬場(たかだのばば)

(新宿区)

1910年(明治43年)開業。早稲田大学が近くにありますね。

「高田馬場」という地名は、三代将軍徳川家光によって造られた馬術の訓練場(馬場)から来ていて、「高台にある馬場」の説があります。
もう一つは、この地が家康の六男で越後高田藩主・松平忠輝の生母、高田殿(茶阿局)の別荘があったことから「高田馬場」になった説があります。

高田馬場駅の駅名は当初、当地の町名から「上戸塚」や「諏訪之森」になるはずでした。
しかしすでに、東海道本線に「戸塚駅」(神奈川県)、南海本線に「諏訪ノ森駅」(大阪府)が存在していたため、当時の鉄道院は、近くにあった有名な史跡である「高田馬場」を駅名に採用します。

近くとは行っても、史跡は駅から1.2km、徒歩15分ほど離れていて、現在の西早稲田3丁目にあった高田馬場。
実際にはその場所に存在しなかったものの、駅名に引っ張られ、1975年(昭和50年)に駅周辺の町名が正式に「高田馬場」になっています。


●新大久保(しんおおくぼ)

(新宿区)

1914年(大正3年)開業。
利便性向上のため、この時期、高田馬場や鶯谷に続いて増設された駅の一つです。
目白と並ぶ山手線のみの単独駅ですが、コリアタウンや、隣にある歌舞伎町の影響もあり、目白よりは雑多な印象がありますね。

1895年(明治28年)に先に開業したのは、中央・総武各駅停車の大久保駅。
その後、山手線に「新たに出来た大久保駅」なので「新大久保駅」となったわけですが、地名の由来は、大きく窪んだ低い土地を意味する「大窪」=「大久保」から来ています。

ただ、実際の駅周辺の地形は平地になっています。これは、かつて「大久保」という町名が今より広範囲に渡って存在していて、大きな窪みは少し離れた所にあったからだそう。

駅の所在地は、現在「百人町」ですが、ここもかつては「大久保百人町」だったので、高田馬場みたいに無理やり付けているパターンではないですね。


●新宿(しんじゅく)

(新宿区)

1885年(明治18年)開業。
JR東日本、京王電鉄、小田急電鉄、東京メトロ、都営地下鉄の5社11路線が乗り入れる巨大ターミナルで、一日の乗降客数も約353万人(2017年)と、ギネスにも認定された、世界一の規模を誇る駅です。

開業当時は田んぼが広がる何もない郊外でしたが、私鉄の乗り入れや、関東大震災による西部への人口のシフトで、新宿は盛り上がりを見せます。
デパートの林立に、歌舞伎町などの繁華街の醸成、さらに1991年には東京都庁が丸の内から移転するなど、「副都心」とは言うものの、実際には東京で一番大きな街ですね。
昔の人もまさかこんなことになるとは思ってなかったでしょうね。
ちなみに、西口にあった「淀橋」という農村地帯の名前を受け継いで生まれたのが、ヨドバシカメラです。

「新宿」という名前はどこから来ているのでしょうか。

江戸時代、徳川家康は日本橋を起点とした五街道(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道)を整備します。
各街道には宿場町が置かれましたが、日本橋を出発して最初の宿場町が近くにあった東海道、中山道、日光街道、奥州街道に対し、甲州街道だけは高井戸(約16km)と、ひときわ離れた所にありました。

こうした経緯から、「日本橋と高井戸の間に新たな宿場町を作ろう!」という思いで作られたのが「内藤新宿」という宿場町。
信濃高遠藩・内藤氏の屋敷があったことからこの名が付きました。
青梅街道の分岐にもなる事からこの地になったとされています。
そこから時代が経ち、いつしか「新宿」呼びになったんですね。
ちなみに新宿御苑の住所は「内藤町」です。いいですね~。残ってる~。


●代々木(よよぎ)

(渋谷区)

1906年(明治39年)開業。
駅の所在地は渋谷区ですが、新宿エリアの一部として、「新宿」の名を冠した施設や店舗が多く、近くにある小田急南新宿駅も渋谷区です。

屋内スポーツの聖地である国立代々木競技場や、代々木公園の最寄りは原宿駅で、代々木駅からは離れています。
それもそのはず。かつての代々木村は今よりも広く、現在の代々木駅を東端として西は代々木上原あたり、北は甲州街道、南は富ヶ谷あたりまでの範囲でした。

現在の明治神宮御苑には、かつて彦根藩井伊家の屋敷がありましたが、この地に旅人の目印としてモミの木が植えられていて、「代々大きな木があった」という意味から、「代々木」という地名になったそうです。
「よよ」と読むセンスに脱帽です。


●原宿(はらじゅく)

(渋谷区)

1906年(明治39年)開業。
レトロな木造駅舎で有名な原宿駅でしたが、耐震性の問題や、年々増加する観光客に対応するため2020年に解体され、現在の新駅舎に変わりました。
個人的にも、歴史的な建物が無くなったことに対して寂しい気持ちでしたが、将来的には旧駅舎を復元して商業施設にする計画もあるそうなのでご安心を。

開業時の駅舎は今よりも代々木駅寄りにあり、そこから伸びる駅前通りが、現在の竹下通りだそうです。

原宿駅の利用客が爆発的に増えたのは、1920年(大正9年)の明治神宮創建です。
この前後で表参道が整備されたり、現在の位置に駅舎も構えるなど、多くの参拝客を迎えることになりました。

原宿駅にとってもう一つの大きな出来事はやはり、1964年(昭和39年)の東京五輪です。
会場の代々木競技場が建設されると、周辺施設が整備されたり、「五輪橋」が架けられ、表参道が幹線道路としての役割を持つなど、街の重要性がさらに高まりました。
1964年と2020年。二つの五輪によって成長した街だと言えますね。

「原宿」という地名の歴史は古く、江戸時代以前にさかのぼります。
相模国から奥州に向かう鎌倉街道の宿場町がこの地にあり、「千駄ヶ原にある宿場町」から「原宿」になったとされています。
1083年に起きた、後三年の役という源氏による戦いにもこの宿場町は出てきていて、ものすごく重厚な歴史がありますね。

「若者の街」というイメージとのギャップがすごいです。きゃりーぱみゅぱみゅもビックリでしょうね。


●渋谷(しぶや)

(渋谷区)

のちの山手線の一部となる品川ー赤羽間が開通した1885年(明治18年)3月1日に、新宿駅と同時に開業しました。
開業日の利用者はゼロと、田畑が広がる人が少ない地域でしたが、今や新宿や池袋と並ぶ巨大ターミナルに成長。
JR東日本、東急電鉄、京王電鉄、東京メトロの4社9路線が乗り入れています。

かつて存在していた、宇田川や渋谷川(一部が復活)の合流地点である渋谷は、文字通り“谷底の街”です。
駅を中心として、道玄坂や宮益坂といった坂道が多くあるのも特徴です。
なので地名の由来は、その地形から来ている説もあるようですが、有力なものは人名説です。

現在の神奈川県大和市渋谷(小田急江ノ島線・高座渋谷駅周辺)を本拠地とした武士、渋谷氏が所有していた土地からその名がついたそうです。
ちなみに、渋谷氏が構えた「渋谷城」の跡地が現在の金王八幡宮で、そばにある渋谷川を堀にしたそうです。
近未来都市・渋谷にも城があったんですね。

昭和になり、駅周辺の発展をリードした存在が東急です。
電鉄会社が自社で百貨店を作る先駆けとなった大阪の阪急梅田駅。これを参考にした東急が、1934年(昭和9年)にターミナルデパートである東急百貨店を渋谷駅に開業。
これを皮切りに、街づくりに大きく関わってきた東急。渋谷の109も東急グループであることは有名ですよね。

その後、東急に対抗した西武が1968年(昭和43年)に西武百貨店、1973年(昭和48年)にPARCOを作ったことから激しい開発競争になりましたが、西武自体は渋谷に駅を持っていない点が興味深いですよね。

東急東横線の地下化、埼京線ホームの移設など、ここ10年で街の様相が激変している現在の渋谷駅ですが、高層ビルの建設ラッシュも目を見張るものがありますね。
渋谷スクランブルスクエア、渋谷ヒカリエ、渋谷ストリームなどそのほとんどが東急グループの建物です。
渋谷は、“谷底の街”であり、“東急の街”なんですね。


●恵比寿(えびす)

(渋谷区)

1906年(明治39年)に旅客営業を開始する恵比寿駅ですが、さかのぼること5年前、工場からある商品を運ぶための貨物駅としてスタートしました。
その商品とは、ビールです。

現在の恵比寿ガーデンプレイスは、かつて日本麦酒醸造会社(現:サッポロビール)の工場があり、そこで製造していた商品が「ゑびすビール」でした。

ビールの商標にちなみ「恵比寿」の名前が駅名になると、1966年(昭和41年)には正式な町名になったのです。
今や住みたい街ランキング上位のおしゃれタウンですが、発祥はビールなんですね。

一企業の一商品が駅名になり、地名になる。
こんなパターンなかなかないですよね。こういうのマジで最高。


●目黒(めぐろ)

(品川区)

1885年(明治18年)開業。
山手線では、新宿、渋谷の2週間後に、目白と同時に開業しました。

地名の由来は、目白の時に紹介した、江戸五色不動の目黒不動尊から来た説がありますが、もう一つは、この地に牧場があり、が逃げ出さない様に盛り土した畦道を意味する、馬畦めくろに由来するという説が有力だそうです。

東京には馬に関する地名がやたら多いです。
山手線だけでも、高田馬場、駒込。
他にも練馬、駒沢、駒場、馬込、馬喰町などなど。
やはり、武士の街なので馬が重宝されたからでしょうね。

「目黒駅は目黒区にはなく、品川区にある」というトリビアは東京人からしたら有名です。
当時の駅名には、必ずしも所在地の集落が選ばれたわけではなく、少し離れた有名な集落の名前が選ばれることがしばしば。
高田馬場や大塚が同じパターンですね。
また、江戸時代の感覚が残っていた明治では、1里(4km)なんか全然徒歩圏内。充分駅近だったんでしょうね。


●五反田(ごたんだ)

(品川区)

1911年(明治44年)開業。

目黒川沿いに大きな田んぼがあり、この田んぼの大きさが5反(約5000㎡)だったため、江戸時代に「五反田」の名前が付きました。予想通りですね。
地元民しか知らないマイナー地名だったものの、駅開業とともに広まることに。
「五反田」の名がついた町名は、「西五反田」と「東五反田」のみです。

製薬会社やITベンチャーなどがひしめくオフィス街で、都市銀行の支店も多く点在。また、ホテル街や風俗街といった面も併せ持つ面白い街ですね。


●大崎(おおさき)

(品川区)

1901年(明治34年)開業。
山手線の駅の中で一番南に位置する駅です。

かつての大崎は、特にこれといった特徴のない工場地帯でしたが、80年代後半からの再開発による、高層ビルや複合商業施設の建設ラッシュ、埼京線、りんかい線の乗り入れなどにより一気に発展しました。
東京都が定める7つの副都心(新宿副都心、渋谷副都心、池袋副都心、上野・浅草副都心、錦糸町・亀戸副都心、大崎副都心、臨海副都心)の一つで、新宿や渋谷ほどではないものの、人が集まる街として、この30年ほどの間で変化した街だそうです。

「大崎」の由来は、秩父山系から平野部に入りこんだ山裾の部分を意味する、「尾崎」が訛って転じたものだとする説があります。
また、この地がかつて東京湾に突き出た岬(崎)だったという説もあります。
なんにせよ、想像通り地形が関係していますね。


●品川(しながわ)

(港区)

お気づきの通り目黒駅の例と同じく、品川区ではなく港区にあるややこしいパターンの駅です。

関西方面から新幹線で向かう時、東京駅の一つ手前で停まることから、大きな駅のイメージがある品川駅。
もちろん、山手線を代表する巨大ターミナルですが、地下鉄の乗り入れがないのが少し意外です。

駅の歴史はとても古いです。
1872年(明治5年)10月に、新橋ー横浜間が開通し、正式に鉄道の歴史がスタートしたと言われていますが、その4か月前に品川ー横浜間の仮営業がありました。
なので、厳密には品川駅が「鉄道発祥の地」だとされています。

その後、JR東海が東海道新幹線の駅を品川に新設したのは2003年(平成15年)。
さらに、リニア中央新幹線の始発駅として2027年(令和9年)の開業を目指しています。
日本の鉄道のキーマンとも言える品川駅ですが、現代においても大きな存在感を放っていますね。

地形説や人名説など、さまざまな説が存在している「品川」の由来ですが、個人的に一番しっくり来たのは、目黒川の河口に関する説です。
一見、「品川」という川があったのかと考えますが、実際には目黒川の河口付近を「品川」と呼んだそう。
海に面している目黒川の河口は、交易が盛んな港町で、いろんな品物が飛び交う場所でした。
「品物が集まる川」が転じて「品川」になったそうなんです。
人に教えたくなるエピソードって感じで、めっちゃいいですよね。


●高輪ゲートウェイ(たかなわげーとうぇい)

(港区)

山手線沿線で駅間距離が最も長い品川ー田町間(約2.2km)に、2020年(令和2年)3月開業。言わずもがな山手線で一番新しい駅です。

江戸時代、大名の別荘や諸藩の屋敷が多く点在していた高輪の地は、現在プリンスホテルや各国の大使館があることで有名な、落ち着いた高級住宅街です。
埋立地がなかった昔、海岸線を飛び出して作られた築堤を走る電車を眺められる、抜群のロケーションがそこにはあったんでしょうね。

新駅の名称が発表された2018年。そのあまりにインパクトのある名前は物議を醸しました。
当時、反対の署名活動が行われたようですが、未だに僕はうっすら反対です。笑
いや、公募1位の「高輪」でよかったやん。カタカナて。
気合入りすぎ。日本人特有の、名前に思い込めすぎる悪い癖出たって。

ただ、いかんせん理由がしっかりしているのがこの高輪ゲートウェイ。
江戸時代に「高輪大木戸」という関所がありました。これは人や物品の出入りを管理するのが目的の、いわば「江戸の玄関口」だったのです。
伊能忠敬はここを基点に日本地図の測量を行なったなど、とても由緒ある史跡。「ゲートウェイ」と名付けたくなる気持ちもわかる気がします。

「高輪」の由来ですが、「高台にある真っすぐな道」を意味する「高縄手道」がこの地にあり(現在の二本榎通り)、戦国時代は「高縄原」と呼ばれていました。
「高縄」が転じて「高輪」になったと言われています。


●田町(たまち)

(港区)

1909年(明治42年)開業。

名前もシンプルで、どこか地味な印象が拭えない田町駅ですが、三菱自動車やバンダイナムコ、森永製菓など有名企業の本社や、近くの都営地下鉄・三田駅方面には慶應義塾大学があったりと、通勤通学で賑わう駅ではあります。

江戸時代に、この一帯が田畑から町屋へ移り変わったため、「田町」とよばれるようになったそうです。

明治初期は「芝」を付けて「芝田町」と呼ばれましたが、1911年(明治44年)に「芝」が省かれます。
しかし、1947年(昭和22年)に再び「芝田町」になり、1967年(昭和42年)には、ついに「田町」の名は消滅しました。
現在も「田町」という町名は存在しておらず、駅の所在地は「芝5丁目」です。

駅名にした時は、「これから田町で行くぞ!」と意気込んだものの、「やっぱりなんか弱いし戻さへん、、?」となったんですかね。
ちなみに「芝」は、大企業・東芝や、落語の「芝浜」で知られる地名です。


●浜松町(はままつちょう)

(港区)

1909年(明治42年)開業。

山手線で最も海に近い駅ですが、埋め立てが進んでいない開業当初は、もっと海岸線スレスレを走っていました。
そのことは、駅所在地が「海岸1丁目」であることからもわかります。

JR東日本だけではなく、羽田空港へ向かう東京モノレールの始発駅である浜松町は、空の便を利用するビジネスパーソンなどから親しまれています。
東京駅では「羽田空港アクセス線」が2029年に開通する予定ですが、浜松町駅も改装により2027年から便数を増強。
すぐそばにある都営浅草線・大門駅からは、成田・羽田両空港への直通列車も出ているなど、浜松町エリアの「海から空へ」といったアクセスの強みは今後も続きそうです。

この地の名主であった、権兵衛という人物が浜松出身だったことから、「浜松町」の名がついたとされています。まあそういうことかなとは思ってました。


●新橋(しんばし)

(港区)

1872年10月14日(明治5年9月12日)、日本初の鉄道として新橋ー横浜間(現・桜木町)が正式開業した際に、東京側のターミナルとして営業をスタート。日本の鉄道の歴史はここから始まります。

しかし、厳密に言うと、当時と現在では新橋駅の位置が違います。
1914年(大正3年)に東京駅が開業したのと同時に、東海道本線の起点が変更。ルート上にあった「烏森駅」が「新橋駅」に改称されます。
元からあった”初代”新橋駅は、「汐留駅」に改称し、貨物線の駅として再スタートを切ることになります。
ちなみに現在、新橋駅の南改札側の出口の名前は、「烏森口」と「汐留口」です。

実際の場所こそ違いますが、「新橋=鉄道」のイメージは定着。
記念碑が置かれたり、実寸大の蒸気機関車を飾る「SL広場」が駅前に広がっていたりと、新橋駅は「鉄道発祥の地」として君臨し続けています。

「サラリーマンの街」としても有名な新橋。
その地名の由来は、江戸時代から存在していた汐留川に架かる橋の名前でした。
1932年(昭和7年)、関東大震災からの復興による新たな町名整理の際に「新橋」という地名が誕生しましたが、その後1965年(昭和40年)、高度経済成長により汐留川が埋め立てられ、同時に橋としての新橋は消滅します。

大阪にしてもそうですが、経済発展で川がなくなる現象は、都会の宿命ですね。


●有楽町(ゆうらくちょう)

(千代田区)

1910年(明治43年)開業。

東京駅にほど近く、また「銀座」や「丸の内」といった有名なエリアが隣接していることから、やや存在感が薄めの街ですが、駅周辺には帝国劇場や日生劇場、東京宝塚劇場などがあり、さらにはTOHOシネマズなどの映画館もたくさんある、「演劇と映画の街」でもあります。

「有楽町」の由来は一説によると、織田信長の弟で茶人の織田有楽斎うらくさいが、関ケ原の戦いの後、この地にある数寄屋橋周辺に屋敷を構えたことから来ているとされています。
明治時代には定着したこの名前ですが、歴史学者の研究では、厳密にはこの時期に有楽斎は江戸にいなかったと言われています。
数寄屋橋周辺には茶人の集まった地区があったので、有名な茶人である有楽斎の名前が結びつけられたのではないか、と研究者は考えます。

なんか野暮な気もしますね。
要するに有楽斎は関係しているということで、「有楽斎の街だから有楽町」で別にいいと個人的には思います。笑



まとめ

ということで、山手線全30駅の駅名の由来でした。
調べれば調べるほど面白くて、ついつい駅の情報などを多く書いてしまい、思ったよりだいぶ長くなってしまいました。
途中から、「おれは一体何をやっているんだ。。」という感情に苛まれましたが、自分自身が勉強になったと思って、これはこれで良しとします。

全部読んでいただいた方ありがとうございました。
今度は関西を始め、違う地方の路線の駅名もまとめたいと思います。

それでは、また!


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