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父親の転院とジャッピー君

正月に親父が入院して1カ月が経った頃、病院から連絡があった。その病院は療養型ではなく、治療型の病院であり、親父の肺炎の症状が落ち着いたら退院して欲しい、とのこと。その病院は親父を「大脳皮質基底核変性症」と診察してくれた先生がいたので心強かったのだが、感染症が蔓延してる中、少しでも病床を空けないといけないという思いもあった。
ちょうど、親父の83歳の誕生日だった。

転院

肺炎が治れば退院することは最初に入院するときに聞かされていたので驚きはなかったが、代わりに入院させてくれる療養型の病院を探す必要が出てきた。もちろん、自宅に連れて帰ることもできたのだが、私たち家族が介護するには無理があったので、療養する施設を探してもらった。
出来るだけ近い施設を希望したが、幸いなことに、その病院よりも近いところに療養型の病院があり、その病院に空きがあれば引き取ってもらうようにお願いした。そこは、実家にほど近く、昔、子どもの頃に親父に連れて行ってくれた釣り堀があった場所を埋め立てた跡に建つ病院だった。

再会

それから1カ月以上経った3月9日、ついに転院することになった。この日ばかりは「退院」「入院」の手続きもあるので親父の顔を見れるということだった。受け入れ先の病院とも綿密に打ち合わせをし、母親とは元の病院で待ち合わせて、母と父は救急車で新しい病院には運ばれることになった。転院手続きということでこの日ばかりは検温、消毒をして病室のある階まで上がることができた。転院の手続きをしてる間に父親がストレッチャーに乗せられて連れてこられてきた。2カ月ぶりの再会だ。手を握らせてもらい、話かけるが、返事することはなかった。ただ、うつろな視線の中で、確かに目と目が合った感触があったが、言葉を発することもできなくなっており、私はショックを打ち消すように「病院、かわるで」「よく知ってる●●病院やで」と大きな声をかけた。そこでなぜか「もうちょっとがんばりや」と声をかけてしまった。これ以上、何をがんばったらええねん!? と親父に怒られるような気がした。我ながらマヌケなことを言ってしまったと、後から猛烈に反省した。

新しい病院に着き、一通り検査をする間に院長先生のお話があった。この病気は治らないこと。食事が喉を通らなくなった状態だからこれからは点滴することになるが、普通の点滴だと2カ月、栄養の高い液をカテーテルで輸液すれば半年から1年、と言われた。この感染症が蔓延してる中で、病院に見舞いに行くこともできない状態が続いていたが、そのうちに終息して誰もが簡単に見舞いに行けるようになることを信じて、カテーテルでの輸液をお願いした。最後にもう一度顔を見て、話して帰りますか?と言われたので、別の部屋で検査をしていた父親に会う。「ほな、また来るからな」を言いながら親父の顔を覗き込んだ。目ヤニがたまった目が潤んできたように見えた。

それからまた、母が週に1回、紙オムツを病院に届ける生活が始まった。

感染症予防とはいえ、明日をも知れぬ親父に、好きな時に見舞いにいけないという事実は、この2,3年、世界中で起こってきたことで、時折その理不尽さもニュースになっていた。よもや自分がそんな思いをするなんて夢にも思わなかった。月に1度は院長先生から容体を聞いていたが、徐々に「後退」していく事実を聞かされるだけだった。

息子から親父にプレゼント

ある時思い立ってあるものを差し入れした。親父は関西生まれの関西育ちだが、大のジャイアンツファンだった。しかし、河内で生まれ育った私は、そんな親父の影響を受けず、腕を切れば黄色と黒の血が流れるほどの虎党となった。だからよく親子喧嘩をした(笑)。いつもは弱いタイガースを親父がけなす、という流れだったが、たまにジャイアンツがタイガースに負けていようものなら、親父は機嫌をそこね、暗い食卓となった。臥せるようになってもテレビでジャイアンツ戦は見ていたので、ラジオを聞きながらジャッピー君を手に応援して欲しいと思い、ジャイアントのマスコット「ジャッピー君」の小さなぬいぐるみをプレゼントしたのだ。看護師に託し、ベットの横においてもらったはずだ。まさか私のような純粋なトラキチが「ジャッピー君」を買う日が来るとは想像もしてなかった(笑)

5月に入り、お店の飲食店での食事も少しずつ解禁になって、そのうち海外旅行も、宴会も、何もかもが解禁になったとしても、病院という性格上、誰でもが自由にお見舞いにいけるようになるのは一番最後かもしれない。親父を想ってくれる人はたくさん居る。その人たちにも一目、生きてる間の親父を見て欲しいと、切に祈る毎日である。


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