見出し画像

7月24日お昼前。

東大阪市の枚岡病院で私と母親に見送られて、父は静かに眠るように逝きました。

本当に静かな最後だったので、いつどのタイミングで、というのは定かではなく、フェイドアウトしたかのような最後でした。

心電図も拾えないほど心拍が弱っていたので、ドラマなんかにあるような「ピッ。ピッ。ピー――」という流れはなく、常に「ピーーー」という状態だった。

ゆっくりと体温が無くなっていき、先生がご臨終ですと言ったのが11時34分。
「えっ?」という間もなく、やれ葬儀屋に電話しろだ、どこそこに連絡せにゃならんといった雑用に追われ、霊安室も人がいっぱいで親父と一緒にいてやることもできず。

本来は家族葬で、そのまま式場に連れて行ってもらうはずだったが、母親が「住み慣れた家に一度返してあげたい」というので急遽自宅に連れて行ってもらった。

何年も親父が療養していた部屋を急いで片付けて、親父に帰ってきてもらった。

と同時に葬儀屋さんもやってきて、通夜、葬儀の段取りを打ち合わせ。横たわる親父を横にテキパキといろんなことを決めていかないといけなくで、ものを言わなくなった親父が横に居る実感が中々湧かなかった。

そうこうしてるうちに通夜は明日、葬儀は家族葬で明後日という段取りを決めて、着替えなどを取りに一旦自宅に戻る。

夜、親父の元に戻ると、たくさんの弔問客がやってきたと母親から聞く。地方からの出身者のくせに、古くからの友達だったり、自治会の防犯委員だったり、地元の老人会の人だったり、病気になる前からお世話になって、療養中も何かと気にかけてくれた人たちだ。

夜になって、やっと親父と二人きりで過ごすことができた。

療養中、自分の体が思うように動かなくなった時、よくこの部屋に一緒に泊まって、真夜中、「おい、ゆたか。 おしっこ」と、名前を呼ばれて、起こされた。

そのまま親父を抱え、両手を持ってトイレに導いてく。ズボンとパンツをおろし、便座に座らせ、私はトイレの前で待つ。

用がたせたら「よっしゃ、終わった」と言う声が聞こえるので、今度はパンツとズボンを履かせ、また両手を携えてベットまで連れてきて、抱きかかえるようにして寝かせる。

そして、親父は必ず最後に「ありがとう」といった。

頻尿だったから、一晩にこんなことが3,4回繰り返される。何度も睡眠を邪魔されて起こされた瞬間は「ムカ」っとするが、毎回この「ありがと」を聞くたびに「いいよいいよ、いつでも起こして」といってしまう。不憫な親父に涙することもあった。

辛い闘病から解放され、自由になった親父とまたこの部屋で夜を明かすことになった。

できることなら何度でも「おい、ゆたか。おしっこ。」と呼びかけて欲しかった。
「もう、おしっこ、ないか?」と冷たくなった親父に何度か話かけてみた。

やっと親父の死と向き合い始めることができそうだ。

ヘッダの写真は、20年ほど前、大好きな初孫に何かを教えている親父の後ろ姿です。この写真は親父の仏前と、孫の部屋に1枚づつ飾っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?