美容院に行った日

普段スマホでも紙でも何かを書いているので、noteの更新も頻繁にしている気がしていた。世に出されなかった下書きはどこに行くんだろう、どこにもいかないのよ、という考え事をよくする。最近の下書きは全部スマホのその他のメモに混ざったままで、いつかの私がみつけてきっと「わかる」にするのだと思われる。それがいい。

ーー
髪を少し切った。髪を染めてリタッチを繰り返すのさえいよいよ面倒になり、地毛を伸ばし、色が落ちて傷んだ側を地毛の色に寄せた。ら、やっぱり染めている方がすきだなあとなった。あまのじゃく。

担当してもらった若いお姉さんに「(髪に対して)めんどくさがりでこだわりがなくて」みたいな話をしてしまった。帰って、美容というものを生業としている彼女が誇りにしているかもしれないもののことを傷付けてしまったように思った。心の余裕がたくさんあれば毎月だってトリートメントして、髪の綺麗な人で居たい。その思いはお姉さんに届くことも特になく。

自分よりきっと若いお姉さんの口は黙っているときでも綺麗に口角が上がるようになっていて、私も真似して上げていたが途中で真顔に戻っているのだった。対人の仕事のときはあんなふうにずっと微笑めていた気がする。
あの口角は、働くというエンジン。仕事中はいかなることがあっても笑顔でいることで、つらいとか面倒くさいとか悲しいとかそういうのが外に出ないようにするためのおまもり。など、知らない人のことを自分のものさしで見るところが、今日はとても残念に思えてならない。

最近見ているドラマの一話で登場人物が同じ美容室には行かないようにしていて、私も、二度目がない二度目以降のクーポンを両手で受け取りながら「ドラマといっしょだ」と思っていた。ださいなあ。笑顔で受け取った。お姉さんはきっと賢い人で、にこやかだったがもう来ないんだろうなという空気が流れている気がした。

美容院の鏡の前で笑う自分が家やショッピングで覗く鏡よりもひどく残念に思えて、勝手に良い客でありたくて頑張ってにこにこしたことにも疲れて、つい「生きるのしんど」と店を出て本当に本当に小さく口に出してしまった。そういうお年頃。嫌だなあ。
美容院では自分に似合わなすぎるなあと思った巻かれた横髪、ユニクロの鏡ではきちんと似合ってみえた。なんだそれすぎなんだなあ。

ーー
街では、イベントPRのために結集したと思しき音楽隊が何かを奏でていた。街行く人はみんな暖かい空気をして微笑んでいて、顔の綺麗な外国人観光客のおじさまがとてもにこやかにスマホを掲げていた。のを横目に、一人だけ浮かない顔をして、イヤホンすら耳から外さず笑うでもなくしていた自分のことが、とっても悲しかった。

帰り道「美容院の鏡 ブサイクに見える」と検索すると、既に知恵袋で何年も前に同じように思っていた方々の存在を発見し、少し笑った。美容院だとかっこよくみえるとかいつもより綺麗に見えるというものもあった。視点、だ。なんにだっていろいろな見方があるし、自分はいつも心が荒んで偏っている方にいる気がしてならず、さみしい。善良になりたい。とびきり暖かく。

ーー
数日前、noteで見つけたラブコメを読んでいた自分はたしかに楽しそうだったはずだが、そのあとで重い小説を読み、自分の「深い、暗い」に光を当てたくなったらしい自分で書くとこうなる。いずれこのモードを忘れてまた違う色をしたくなる。影響を受けがち。きっと他の人からみたら昨日も今日も明日も変わらない私。わたし、わたし、ばっかりなのだけいつもどおりだなあ。

いろいろなしんどいがぐっと押し寄せてきた気分になり、もうどうにもならない相手に話したくなったなどと連絡したくなったが、「そういうのには屈しない」を過剰に信じているのでぐっと耐えて眠った。今日もこんな自分が、本当はどこかでいちばんかわいい。のではなく、こんな自分を文字用に飾り立てている時間が愛しい。のだと思う。現実を、良いように並べて言葉にすれば多少まるっと愛せてしまった気になれるこの書いている時間がすきだ。
などとこう書いている自分のことはきっとまた忘れる。なんでもかんでも忘れて、また違う温度で何かを書き始めるのだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?