九月の蒼、あるいはオレンジのこと

 大谷さんからそのメールが届いたのは一週間前になる。

 大谷さんというのは僕がアルバイトをしている喫茶店の店長だ。ドラマとかでよく見る感じの髭にドラマとかでよく見る感じの服装、ステレオタイプという表現が適切なのかは分からないがとにかくそういう人だ。人柄に関しても想像に違わず温厚で、怒っているところというかなんなら大きい声を出しているところさえ見たことがない。たぶんここで働いているほかの人達も全員見たことがないだろう。
 そんな彼から日曜の午前中に突然メールが届いた。僕の職場では業務連絡はメッセージアプリで行うので、初出勤の時に念のためということで聞かれたっきりのメールを使う機会は皆無だっただけに驚いたし妙に緊張していた。

娘と話をしてほしい。

 丁寧な言葉で飾られた10行と少しの文章は要するにこんな内容だった。一週間後、つまり今日の昼に家に来て娘と話してほしいと言うのだが、「娘」については詳しく書かれていなかった。どうして僕に頼んだのかも分からなかったし人との会話が得意な訳でもないので心配ではあったが、どうせすることもないし大谷さんの家は思ったより近くにあったので断る理由はなかった。

 家を出る前になんとなくそのメールを読み返しながら思ったのだが、僕は大谷さんの家庭に関する情報を一切知らず、大谷さん自身についても職場で知り得る情報しか持っていなかった。家での生活はどんな感じなんだろうとかその他どうでもいいことを考えながら歩いているうちに目的地は目の前にあった。

 初めて見るだけに違和感のある私服姿の大谷さんに通されたその家は、なんと言うかどこまでも普通だった。特筆すべき点はないって言葉を使う場面がやっと来たとかまた下らないことを考えながら2 階への階段を登ると、どこか不自然に置かれたような(場所が明らかにおかしいとかそういうところは全く無くこれもまたどこまでも普通のドアだったのだが、その時はなぜか違和感を感じていた)ドアの前で立ち止まった。
「ここが娘の部屋なんだ」
 大谷さんがほんの一瞬だけ暗い顔をしたのに僕は気づいたが、すぐにいつもの柔らかな顔に戻り
「せっかくの休日にすまないがよろしく頼むよ。たいしたものじゃないが後でお礼も渡すし、暗くなる前には帰って大丈夫だから」
と続けた。わかりました、という僕の返事に微笑みで返すと大谷さんは階段を降りていった。  

 面接会場に入る時のあの感じとはまた違った妙な緊張感を控えめな深呼吸で落ち着かせ、ドアをノックする。しばらく待つが反応が無いのでもう 1度叩き、もう勝手に開けようという判断に至ったのは3セット目を終えた後だった。

 その部屋は真っ白な壁に囲まれていて、窓から見える塗りつぶした様な青色を際立たせていた。殺伐とした、という表現が似合う無機質な空間だった。

 彼女はベッドに座っていた。勝手に入ったことの謝罪と軽い挨拶をした僕のぎこちない笑みから少し下に目線を外して、快とも不快ともつかない表情をしていた。返事はない。凄まじく気まずい空気の中、立ち尽くしたまま頭の中で「初対面 一言目」で検索を掛けているうちに彼女は口を開いた。
「ごめんなさい。ちょっといろいろあって…人とお話をするのがあんまり上手じゃないんです」
 先に言って欲しかった。大谷さんの説明不足をほんの少しだけ恨んだ。でも見た目が終わってるからとかそういうどうしようもない理由で顔を合わせた瞬間から嫌われた訳ではないことが分かり、失礼ながら少しほっとしていた。

 彼女はずっとどこか申し訳なさそうな表情をしていたが、会話をすることに苦労はなかった。勧められて椅子に腰を下ろした僕は簡単な自己紹介、彼女の父つまり大谷さんとの関係、その他いろいろと呼ぶには数が足りないがいくつか話をした。終始俯いていて目を合わせてくれることは無かったが、彼女なりに懸命に話を聞いてくれているようだった。

 それから少し間が空いたが、彼女は自分のことを話してくれた。
 名前は綾ということ。15歳だということ。 3年前の事故のせいで足が自由に使えなくなり、それ以前の記憶が鮮明でなくなってしまったこと。学校でいじめに遭ったこと。人と関わることが怖くなり、部屋から出なくなったこと。自嘲気味で寂しげな笑みが、初めて見た彼女の笑顔だった。その後に訪れた沈黙がどれほどの長さだったのかは分からない。

 そういえば、と思い、彼女の母親について聞いてみた。大谷さんに聞く機会なら何度もあったが、毎回別に今聞くほどのことでもないなあ、と、もう一歩が出なかった。どんな人なのか前から少し興味があったのだ。
「その…お母さんは、私が事故に遭ったときに私を庇って…それでもまあ、こんなふうに足は使えなくなっちゃったんですけど」
本当に先に言って欲しかった。大谷さんが悪くないのは承知の上で、心の中であまり綺麗ではない言葉が何個か再生された。僕の謝罪に対する彼女の言葉からあまり落ち込んだ様子は見えなかったので心底安堵していた。

 好きなものの話をしよう、と僕は言った。好きな食べ物、好きな歌、好きな色、好きな言葉、好きな場所、とにかく何でも、好きな事の話。出会ってからまだ何時間も経っていない、ほとんど何も知らない彼女の笑顔、本物の笑顔を見たいと僕は確かに思っていた。
 悩む素振りを見せたり、時には思いつかないと言ったりもしながら、照れくさそうに笑って彼女は答えてくれた。かくいう自分も自己紹介とかで好きなものの話をするのは何だか気恥しくて得意じゃないことを思い出し、あまり良い話題じゃなかったかもなと今更思ったりもしたが、彼女は笑っていた。
 好きな場所はどこかと聞くと、彼女は「わからない」と答えた。四畳半の白い部屋と小さな窓が彼女の世界の全てだった。
「テレビで見る綺麗な景色も知らない街も、私には想像がつかないんです」
 足元を見つめながら、寂しげに彼女は呟いた。

 なら、探しに行こうよ。

 背中がぞわっとするようなその台詞は何の抵抗もなく僕の口から零れた。少し恥ずかしくなって、思わず目を逸らしてしまう。視界の端に見えた彼女の笑顔は、今までで一番明るかったように思う。
 ふと見た青い窓は、いつの間にかオレンジ色に変わっていた。


 20170905 昔書いたブログから 一部改変

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