8/5 - 帰りの会が終わったら

・この前質問箱を設置したらありがたいことに思ってた6倍くらいメッセージがきてたのでこれから少しずつ答えていきます。しばらくネタが尽きなくなったぞ。

・いろんな人にいろんな所で訊かれるので、ここではっきりさせておきます。細かく話すと長くなってしまうのですが、この際なので細かく長く話します。
まずはじめに、僕ら5人の出身は同じ県なんです。詳しい地名は言えませんがとにかく田舎も田舎でそのくせだだっ広いので、普通の生活圏で普通に暮らしていれば出会う機会なんてまずありませんでした。
そして時は遡り、僕らが中学3年生の頃のこと。受験勉強や志望校選択などで大変だった思い出がみなさん蘇ることと思いますが、人口よりも家畜の頭数のほうが多いとまで言わしめた我らの故郷にはそもそも高校の絶対数が圧倒的に少なく、僕の家から自転車を漕いで20分ほどの学校以外は朝5時半には起きないと間に合わない距離だったため実質的な選択肢はひとつしかありませんでした。そして、数少ない高校には小さめの県を一個跨ぐような距離感のさまざまな地域から人が集まってくるわけです。と言っても倍率が高いわけではまったくなく、なぜかというとまあ想像通りではあるかと思いますが中学校の全校生徒が50人前後という世界なので定員は割れて当然といった風潮だったのです。インターネットを通じて出会った友人たちから聞く高校受験の際の辛い思い出に一切共感できないのが僕の小さな悩みでもあります。
そうして僕が入学した高校も同学年の生徒は30人という有り様でしたが、そのくせ教室の数はやたら多いのでクラス分けが1〜6組まで存在し、1部屋5人という環境で勉学に勤しんでいました。とにかく教室の面積を持て余していて、後ろのほうのスペースでは軽いキャッチボールが成立するほどでした(実際にやって滅茶苦茶に怒られたことがあります)。
そして僕の母校には少人数ならでらはともいえる変わった風習がありました。他教室の生徒との交流を図るためか、朝と帰りのホームルームの際には毎回一人一人部屋がシャッフルされるのです。全部屋共通の連絡事項を先生から聞かされた後、日直だとか黒板を消すとかいったその日の当番の仕事が各教室ごとに伝えられます。これにより、普段の教室に戻ると全員がそれぞれ違う仕事を持った状態になるという仕組みです。そしてホームルームの際には毎回集められた生徒で5分程度話し合う時間があり(それは「ミーティング」というやけにかっこつけた名前で呼ばれていました)、朝は適当な雑談、帰りはその日あったできごとをなんでもひとつ話すというものでした。僕は人前でなにかを発表したりするのが昔から得意ではなくて、この時間にちょっとだけ苦手意識を持ちながらも徐々に受け入れながら過ごしていました。
そんなある日。5月の中頃だったと思います。いつものように登校し、いつものようにグループが組まれ、教室を移動しました。そこにいたのは顔は見たことあるかな、程度の認識の男子が1人と女子が1人、あとは特に見覚えもない男子が2人。先生からの連絡事項が終わるとミーティングの時間が始まりました。この入学したての頃のミーティングがコミュ障には特に辛くて、誰とも目が合わないよう目線を若干下に放り続けることでこの日も乗り越えようとしていたのですが、ある1人の男子がすぐに口を開いてくれました。
「音楽好きなんですか?」
机の木目だけをじっと見ていたので気づかなかったのですが、あんまり誰も返事をしないものですから少し顔を上げるとその声はどうやら僕に向けられていたようでした。音を発する準備をしていなかった僕の喉から「あ」と「え?」の中間のような音声が流れると、彼は僕のiPhoneケースを指差しました。当時使っていたのは僕の好きなバンド、BUMP OF CHICKENのライブグッズだったもの。誰かに気づいてほしくて使っていたわけではなかったのですがなんだか嬉しくて、
「あ、はい。好きです音楽。バンドが好きです」
と返すと周りからも
「私も好きです」「僕も」
これがきっかけでその4人とはすぐに打ち解けました。出身中学の話、いや同じ県だけどそんな地名知らんという話、そしてとにかく音楽の話をたくさんしました。またね、と会釈をして、各々1限の準備へと戻っていくなか、僕は自分の顔がニヤけていることに気づいて鼻の横あたりを掻くような仕草をして口を隠しながら廊下を歩いたのを今も覚えています。思えば、帰りのホームルームが楽しみだったのは初めてのことでした。
その日の授業が終わり、カバンを持って朝と同じ教室に戻ると男子3人が先に座っていました。もうすっかり仲良くなったようで、好きな音楽の話をしていたのが教室の外からもうっすら聞こえてくるほどでした。もう1人も少し遅れて到着し、先生の話が始まりましたがその音は言語に変換される前に脳から逃げていきました。このとき先生は明日の面談に使う書類の話をしていたらしく、翌日職員室で怒られました。そんなことはよくて、僕はもうずっとそわそわしていて、自分から人に話したいことがあるなんて珍しいなと自分でも思っていました。そうして420分間ずっと楽しみにしていた5分間が始まると、1人の男子が口を開きました。
「いや〜、おれ授業中ずっとみんなに何話そうか考えてた」
つられて他のみんなも、
「わかる」「高校入って初めて友達できたかもしれん」
と続きます。
「今日の帰りの会すごい楽しみだった」
と僕は言いました。すると、全員がこっちを見て
「え?」
という顔をしていました。実際、何人かは発音していました。
「何が楽しみ?」
「いや、だから帰りの会が」
「なにそれ」
「えっ」
今でこそ方言イジリ的なものはたまに受けますが、まさか同じ地域の人から指摘されるとは思ってもいませんでした。他のみんなは小中学校からずっと「ホームルーム」「朝学活・帰り学活」とかいった呼び方をしていたそうで、「帰りの会」という単語は初耳だったそうです。そんなことある?と思いましたし、今も思っています。
「めちゃくちゃかっこいいじゃん。なんだそれ」
「秘密結社かよ」「帰りの会を始めます(碇ゲンドウと全く同じポーズをしながら)」
と散々な言われようで、僕はまったく悪くないのになんだか恥ずかしい思いをさせられました。その日の下校時にみんなでラインを交換しグループを作ったのですが、罪人を磔にするかのようにそのグループ名は「帰りの会」にされました。
しかし、この事件が良い方向に作用し、僕らの仲はより深くなっていきました。僕が中学からギターをやっていたことを話すと、「おれ実はドラム叩ける!」「ずるいななんか。おれもギター始める」「じゃあベースやる」というように段々と楽器のパートが揃っていき、人数が少ないおかげで合唱コンクールの際に女の子の歌が明らかに上手いことが発覚しました。ここまでくると、「バンドをやろう」という話が出てくるのは自然な流れだと思います。その話し合いをしていたのも例のライングループの中のことで、「帰りの会」はなんの議論の余地もなく、バンド名として採用されました。
そこからは各々が好きなバンドのコピーなどを続けていました。帰りの会が終わったら、僕らの帰りの会が始まります。軽音部がなかった代わりに、田舎に暮らす僕らの家には手に余るほどの広さをした車庫や庭がありました。もう時効だと思うので言いますが、近くの空き地なんかも勝手に使ってどこに発表するわけでもないバンドの練習をしていました。バンドのことが関係なくても、僕らがやりとりに使うのはあの「帰りの会」というグループ。遊びに行くときも、課題の答えを共有するときも、かしこまった相談をするときも、たまに喧嘩をするときも、仲直りをするときも。ただのバンド名よりももっと大きな、そして大切な意味を持つようになっていきました。
そうして3年はあっという間に過ぎ、卒業が近づく頃。チョボスキーの小説『ウォールフラワー』で、チャーリーは自らの青春の日々を“果てしない”と喩えます。未来の僕らがこの果てしない日々を忘れないように、いつでも音楽から取り出せるように。19歳になった僕らやもっと先の僕らに向けて、18歳の僕らが作った曲が… これ以上は野暮なので文字を濁そうと思います。
長くなってしまいましたが、これが僕らのバンド名の由来です。帰りのホームルームのことをへんてこな名前で呼んでいた僕の故郷を、今は誇りに思っています。

・そしてここまでの話、ぜ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜んぶ嘘です。

質問箱↓

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?