夕焼けの怪獣

 僕の町には怪獣がいる。どうしているのかも、いつからいるのかも分からないが、とにかく普通に、いる。

 怪獣ははずれの町工場で、このあたりの星空やお日様の光のもとをつくったり取り替える仕事をしている。
 お昼前のお腹が空きはじめる時間になると、中央広場にある分光炉のそばで、ひげもじゃの親方に叱られたり褒められたり一緒に笑ったりしているのをよく見る。休日は3丁目の公園で、2メートルには少し届かないくらいの背丈のぬいぐるみのような体をどしどしいわせて子供たちを追いかけ回したり、追いかけ回されたり、近所のおばあさんとベンチに腰掛けて、水筒のお茶を飲みながら世間話をしているのを見る。
 先の丸まった三角の爪や歯に ──背中のギザギザの名前はわからない。本人も知らないと言っていた──  、オレンジと茶色のあいだ、ちょうど焼きたてのパンのような色のふかふかの友人と、この町は暮らしている。

 今日の夕方、河川敷で怪獣と会った。大きな紙袋を片手に抱えた怪獣は少し遠くから僕の姿を認めると、もう反対の手に持っていた音楽プレイヤーを人間でいうズボンのポケットあたりの毛の中に突っ込んだ。そしてイヤホンを外しながら、よお、とまんまるの肉球を僕に見せた。
「怪獣、今日はお休み?」
 僕は訊いた。
「いや、仕事の帰り道だよ。このごろは日が短くなってきて、星に使う光を運ぶのも少し早い時間から始めるからこのくらいの時間に帰れるんだ。その分朝は早起きしなきゃいけないけど」
「そっか。それで昨日の朝は急いで走ってたんだ」
「やめろよな」
 怪獣は口をへの字にして言った。少しして、僕に尋ねた。
「ケンちゃんは学校帰りかい。それにしてはずいぶん遅いね」
「うん。明日はサッカーの試合があるから、友達と居残り練習してたらこんな時間」
「それは大変だったなあ。そうだ、ケンちゃんさえよければ、そのへんに座ってご飯を食べていかないかい。さっきお弁当屋さんに行ったら、残ったからって余分に1つもらったんだ。こう見えて別に大食いってわけじゃないんだぜ、おれ」
 疲れてお腹も減っていた僕は二つ返事で頷いた。そしたら、と怪獣は僕の家の電話番号を訊いた。怪獣はこういうところがとてもしっかりしている。
「こんばんは、ケンちゃんママですか。はい、怪獣です」
 きっと僕ら人間には伝わらないだけで、怪獣にもきっと名前があるはずだ。それでも、怪獣は僕らに自分のことを話すときはいつも「怪獣です」と言う。それがなんだか可笑しい。
「はい、はい。いえ、もう支度を始めていたらいけないと思って。あ、そうですか、良かった。はい。あ、本当ですか。嬉しいなあ、ケンちゃんママのカレーなんておれ大好物です。じゃああとでお邪魔しますね。ケンちゃんには代わりますか。あ、そうですか。いえ、こちらこそありがとうございます。はい、それでは。」
 電話を切りながら、怪獣は僕に親指を立てた。

 それから僕らは河川敷の階段のところに腰を下ろして、お互いのお弁当のアジフライとハンバーグを半分ずつ交換して食べた。川で水切りをしてしばらく遊んでいるといつの間にか暗くなっていたので、
「そろそろ帰ろうか。ママに用事もあるし、送っていくよ」
 と怪獣は言った。

 帰り道の途中、ふと気になって僕は話した。
「最近なんだか夕焼け空の時間が短くなったね。僕あの空の色が好きなんだ」
「あのオレンジ色を作るのはちょっと骨が折れるんだ。太陽の光を捕まえるのも、空の青色と混ぜるのも、なかなか一筋縄じゃいかない」
「じゃあ、短いぶん余計にしっかり見ておこうって思うかも」
「お、中学生にしてはかっこいい台詞だ」
「からかうなよ」

 家に着くと、怪獣は母さんからプラスチックの容器に入ったカレーを受け取り、玄関で僕らは少し立ち話をして、怪獣は帰っていった。
「ケンちゃん、そしたら、明日の試合が終わったあと。ちょうど夕焼け空が見えるころに、また河川敷で会おう。あいにく用事があって見に行けないから、話を聞かせてよ」
 僕らは手を振り合った。
 母さんがアイスを買っておいてくれたので、お風呂上がりに食べた。寝る支度を終えて2階に上がるとき、少し早めに布団に入っていた父さんを起こしてしまったけど、「明日は仕事が昼からだから、途中まで応援しに行くよ」と言ってくれた。


 予報外れの雨なので、傘は持っていなかった。河川敷の階段のアスファルトに雨粒が染み込んでいくのをぼんやりと眺めていた。「おーい」と声が聞こえて振り返ると、目を丸くした怪獣が大小2本の傘を抱えてどたどた走ってくるのが見えた。
「ごめんよ、雨が降るなんて思っていなかった。ほら」
 怪獣は傘を開いて僕に差し出してくれた。口の中で言葉が絡まって、「ありがとう」の声が上手く飛んでいかなかった。

「雨の中で試合なんて大変だったね。どうだった、頑張ったかい?」
 傘を差し、僕の隣に座って怪獣は訊いた。僕はひとつ深呼吸をしてから、
「だめだった」
 とこぼすように答えた。そっか、という怪獣の優しい声や、チームメイトからの励ましのメッセージで鳴る携帯の通知音がなんだか傷口に染みるように痛かった。それからしばらく、怪獣は黙って隣にいてくれた。僕の涙が気づかれていたかどうかは、わからない。


「そろそろ帰ろうか。パパもママも心配するよ。ほら」
 17時のチャイムが鳴ったころ、怪獣はゆっくり立ち上がって言った。この場に留まりたくもないし、かといって家に帰りたい気分でもなかった。怪獣を困らせてやりたかったのか、あるいは少しでも僕と似たような気持ちで居て欲しかったのか。出所のわからない言葉が僕の口から逃げ出した。

「怪獣は、人を食べないの」
「うーん、食べないなあ。でも、悪い子は食べちゃうぞ、なんちゃって。」
「僕は、良い子じゃないかもしれない」
 開いたままの傘を持った怪獣の右手が少し下がるのを横目に見た。それから怪獣は差し出してくれていた傘と、自分で差していた傘もいっしょに閉じて、しばらくの間雨が僕らの肩や、小麦色の毛をしとしと濡らしていた。
 
 5分ほど経ったころだろうか。僕はお腹いっぱいに息を吸い込んで吐いてから、怪獣に話した。
「今日の試合は僕のミスのせいで負けちゃったんだ。みんなは気にするなよって、優しくしてくれたんだけど、それがなんだか、胸がチクチクして。ありがとうも、ごめんねも、バイバイも言わないでグラウンドを出てきたんだ。僕は本当にいやなやつになってしまったんじゃないかって、すごく怖いし、それより、みんなの気持ちを落っことしちゃったのが、怖いし、悔しい」
 引っ込めたはずの涙が、絞った言葉にくっついて流れ出てくる。雨粒と一緒になってアスファルトを濡らす。怪獣は僕の隣に座り直して、
「優しいんだね」
 と言った。それから、ほんの少しだけ僕に寄りかかって続けた。
「ケンちゃんの優しさは、おれも皆もよく知ってるよ。ついこの前だって隣町の、もののけ課のお巡りさんにおれのことを良く話してくれたのはケンちゃんじゃないか」

 それから僕らはしばらくの間なにも言わないでいた。きっと怪獣は、僕の涙が落ち着くのを待っていてくれたのだと思う。
 少ししてから、怪獣は不意によし、と呟いて立ち上がった。お尻についた草切れを払いながら、僕にこう言った。
「おれはやっぱり、ケンちゃんのことは食べられない。けど、ケンちゃんの心の中の、悲しい気持ちはほんのちょっとだけ、かじってあげることができるかもしれない。それならどうだい」
「本当?」
 僕はゆっくり顔を上げた。
「きっと本当さ。でもね、おれは世にも恐ろしい怪獣様だぜ。後悔しても知らないよ」
 怪獣は両手の爪を立てておどけて見せた。僕の頬が少し緩んだのを見ると傘を僕の手に握らせ、
「それじゃあ、少し待ってなよ。すぐ戻ってくるから」
 微笑みながらそう言って走り出したあと、少し強まった雨足を見かねてくるりと戻ってきた。そして僕の傘をひと回り大きな怪獣サイズの傘と取り替え、またどたどたと走っていった。


 15分ほど経ったころだろうか。蛇口の栓を閉めたようにぴたりと雨が止んだ。驚いて顔を上げた先、川を挟んで向こう側にある街を覆う空が、息を呑むほど綺麗な夕焼けに染まっていくのを見た。なんだかこのまま吸い込まれてしまうような感じがして、少し腰を上げ、深く座り直した。それから、まばたきをするのも勿体なく思えるほど綺麗な空を、その上を泳ぐ雲や鳥を、ただじっと眺めていた。

 しばらくして、怪獣は息をぜいぜい切らしながら戻ってきた。手に持ったタオルで顔を拭ってから、まだ空から目を離せないままでいる僕の隣に立った。
「夕焼けに食べられちゃったみたい」
 もうすっかり乾いた涙の残りを指で拭い取りながら、僕は呟いた。怪獣はニシシと笑って、もこもこで暖かい手を僕の頭に乗せた。
「ほら。言わんこっちゃない」
 怪獣が僕の頭を撫でる。くしゃくしゃになった髪を見て、怪獣は笑った。つられて僕も笑った。

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