わずらい

 帰り道に幽霊を見たのだ。今日の昼休みに廊下ですれ違った折に、わたしのかばんから逃げ落ちた文庫本を拾ってくれた、わたしの記憶が確かであれば隣のクラスの男子生徒。ひとり校門を出て、日陰になっているところを選んで歩く彼のうしろにぴったりと張り付いて、それはてくてく歩いていた。ちょうど腰の高さほどの背丈の、ひっくり返したバケツのようなシルエットに白い布を被せて上からマジックで目を描き、大福のような丸い足をふたつ生やした、いかにも子供向け漫画なんかに登場する幽霊ですよと言わんばかりの風態で、やはりそれはてくてくてくてくと彼の後ろをついて回っていた。
 回線の悪いオンラインゲームのキャラクターさながらに突然立ち止まり、「本物の幽霊って逆にそっちなんだ」と思わず独りごちるわたしのことを見つめる友人の目をぱちぱちさせている様から推するに、なるほどそれはわたしにしか見えていないようであった。
 霊感などかけらも持ち合わせていないと思っていたわたしの10余年の人生においてファーストコンタクトとなるそれは、誇張に誇張を重ねたテレビ番組のフィクションによってこびりついた心霊体験の仄暗くおどろおどろしいイメージとは真反対に、まるでベタ塗りで着色したような快晴の下の出来事だった。自分でも不思議に思うほど驚くこともなく、ましてや恐怖などかけらも抱かなかったものの、やはり幽霊をこの眼で目撃したという事実はどうも簡単に飲み込んでやり過ごせるものではなく、常に頭の片隅をその幽霊に明け渡したまま、その日は友人に手を振り家路についたのだった。

 家のドアを閉め、なにとなく深呼吸をしたあと、かばんを床に置いた。ポケットから取り出したスマートフォンには、先ほど別れた友人から「数学の課題を忘れないように」という旨のメッセージ。デフォルメによって野生をすっかり削ぎ落とされた熊がサムズアップをしているスタンプをもって返信とし、靴を脱ぐために振り向いたわたしの目の前に、あの幽霊はいた。
 デフォルメによって恐怖をすっかり削ぎ落とされた幽霊。もはやどうだっていいが、ニュアンス的には「お化け」のほうが適切だろうか。わたしをじっと見上げる真っ黒な目を、框に腰を下ろして目線を合わせ、同じようにじっと見つめていた。とたんに体が空気よりもほんの少し軽くなって、宙に浮きたがっているような感覚を認めたわたしは、こういうのってだいたい肩とかが重くなるものだと思ってた、などとぼんやり考えていた。

 それからというもの、家族で食卓を囲んでいるときも、湯船に浸かっているときも、明日提出の課題の答えを写経している今も。幽霊は少し遠くから、じっとこちらを見据えているのだ。父親からの何気ない会話にも上の空の返事をしてしまい、どこか調子が悪いのか心配されたが、幽霊のせいだ、なんて言えるはずもなく、実際のところ体調が悪いわけでもないので適当にやり過ごした。

 ペンを持つ右手の疲労に耐えかねてベッドによじのぼり、足元に丸まっている布団を手繰り寄せた。目に入ってくる数字や記号をノートに転写しているだけのわたしがこの体たらくなのだから、こういう課題を真剣に解いている人たちの精神力はいったいどうなっているのだろう。
 もうπの一文字を書く気力も残されていないわたしは、残りの数ページは早起きして朝片付けるという英断を決した。少しでも長く睡眠をとるために完璧な回復体位へと移るが、幽霊は少し背伸びをして、ベッドフレームの隙間からひょこひょこと顔を覗かせているのがあんまり気になるので寝付けない。いっさい諦めたわたしは読書灯をつけて、かばんから読みかけの文庫本を取り出した。近所の古本屋に100円で売っていた、ツルゲーネフの『はつ恋』。少し大人ぶって読み始めたそれは果然難しく、ほとんど風景画を眺めるような気持ちでページを繰っている。

 ふと、湧き上がってきた考えごとに押し退けられて手が止まった。彼は、自分の幽霊のことを知っているのだろうか。また、イエスだとしたら、彼にはわたしの幽霊が見えるのだろうか。明日、というかもう今日だけど、会うことができたら聞いてみよう。いや、突然話しかけてきた見ず知らずの女が開口一番に、幽霊が見えますか?なんて、どんな顔をされるか想像に難くない。この案は却下。あれ、そういえば彼はどんな顔だっただろうか。とにかく一度会ってみて、他愛のない話でもしてみようか。じゃあ、どんな内容?まともに話したこともない相手に対して、なるだけ自然で、できれば長く続くような。明かりを消し、しおり紐を挟んで本を閉じた。
 「きみは、どう思う?」
 答えが返ってくることに期待をするわけでもなく、わたしは独り言のように呟いた。締め切ったカーテンや布団が、わたしの言葉をよけいに響かせることなく上手に吸い込む。幽霊はもうずいぶん前に背伸びを諦めて、わたしの部屋の真ん中にあるクッションに体をうずめていた。黒いふたつの点は相変わらずじっとこちらを見つめながら、わたしの質問に対する意思表示だろうか、およそ首と呼べるような部分がないので体ごと傾げていた。わたしも目を逸らさずに幽霊をただ眺めていて、それがどれくらい長い間のことだったのかはわからないが、次に気がついたときには頭上の目覚まし時計がけたたましく鳴り響いていた。

 無機質なビープ音を手探りで止め、寝不足の体を起こす。今さら疑うつもりもないが、昨日の出来事は夢なんかではなく幽霊はやっぱりクッションに埋まっていた。階段を降りるわたしの後ろをてくてくと着いてきて、朝食を食べるときも、歯を磨くときも、靴を履くときも、幽霊は視界のどこかにいた。わたしはそれに気づかないふりをして、靴を履き、日焼けを気にしながら、いつもの待ち合わせの電柱の前で友人と合流し、机の上に置きっぱなしの課題のことを思い出して、言い訳を考えながら歩くのだった。

 かくして、わたしは幽霊を飼っていた。その正体をたしかめるまで、もう少しだけ時間がかかる。

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