外からの概念を取り入れる力が言語を防衛する
あるサイトに、「英語に訳せない、世界の素晴らしい言葉」という記事があった。
https://www.babbel.com/en/magazine/untranslatable-01
"Beautiful Untranslatable Words From Around The World" というタイトルの記事で、たとえばイタリア語の abbiocco という言葉は、「食後の眠気」を一語で指すという。
1. Abbiocco (Italian)
Noun: that sleepy feeling you get after a big meal
Everyone has succumbed to drowsiness after a meal at one time or another, but only the Italians have enshrined the phenomenon in a single word. When you wish you could take a nap after lunch, you’re “having the abbiocco” (avere l’abbiocco).
日本語でも、たとえば「渋い色」などというのは英訳しにくいような気がする。
だが、ここで思うのは、たとえば英語という言語に照らしたとき、ぴったり相当する語がないことはあるが、その概念が英語でまったく表現できないということはあまりない、ということである。
げんに上記のイタリア語 abbiocco にしても、英語なら "that sleepy feeling you get after a big meal" と説明すればイタリア語に近いニュアンスは理解できることを、当のサイト自身が認めている。
日本語の「渋い色」にしても、"a color which is austerely quiet" などと説明すれば、だいたい通じるだろう。
完全にぴったりではないし、一語でもないが、ほとんどの概念は言葉を重ねて説明すれば、おおむね伝わることが多い。
そして、その概念を beautiful と感じて、人々のあいだでこれを自国語で言いたいという欲求が高まれば、発音を自国流に変化させてそのまま取り入れたり(外来語)、自国語で言い換えて取り入れたりする(翻訳語)。
abbiocco という概念を英語人が気に入れば、発音を英語流にしたり、対応する英語を作ったりして、英語に取り入れるかもしれないわけである。
以上は語のレベルの話であるが、こうした「違い」に気づき、それを自国語に取り入れようとする欲求が高まると、ひとつの言語全体が変わることさえある。
たとえば明治時代、日本人は日本語を近代化するため、外国語を翻訳する作業を通して、日本語の仕組を外国語的(近代的)な概念の組み合わせの表現に適するように変更し、江戸時代にはなかった「だ」「です」などの語尾を創成して、言語全体を衣替えしてしまった。
近代日本語は、外国語の概念表現を取り入れることによってできた、翻訳言語なのである(この作業に功があったのが、西周、二葉亭四迷、森鴎外、夏目漱石など外国語ができる学者や文学者であった)。
日本語だけでなく、一般に近代世界の言語いわゆる国語は、内からの概念の発達のほかに、語または文単位で、外からの概念を取り入れる努力を通して変貌する。
国家や企業のような組織体だけでなく、言語もまた外部への対応を通して洗練され、絶えず変化することで、自律性が維持できる。
外部を取り入れ、変貌することによって、言語は防衛される。
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