見出し画像

月食と花火の話

月食を見ながら、江戸川の花火大会で松ちゃんが「花火って、なんでいつも俺たちの方を向いてんだろうな」と呟いたのを思い出す。

そのとき、僕はちょっと考えて、「…いや、球体なんじゃない?」と返した気がする。

あれは、クソリプだったなぁ、と今になって後悔している。
正しい、それは正しいのだが、その正しさが全てをねじ伏せてしまった気がしてならないのだ。

僕はなんというかその(ラララ)科学の子なので、なにか不思議なことがあるとす〜ぐロジック片手にモヤモヤへドカドカと踏み込んでいってしまうのだ。



「花火がいつも俺たちの方を向いている…?つまり松田は花火を『ペラペラの平面』であると捉えていて、それが奇跡的にいつも俺たちの方を向いて打ち上がっている、そういっているのか…? いや、それなら運悪く花火の真横に立って、”ペラペラ線状の花火を見てしまった人”というのもいることになるわけで、そういう体験談があってもおかしくない…が、そんな話は今まで聞いたことがない。つまり『花火は平面である』という前提の方こそ疑う必要がある。我々が目にしているこれは”奇跡的にこちらを向いた円”なのではなく、”どこから見ても円に見える形状の断面”であると。ということは…」

キュイーンカチャカチャ…



「…いや、球体なんじゃない?」(ドヤ)



いやクソリプ〜〜〜!
いいじゃん別にどっちだって、なんなら「いっつも俺たちの方向いてるなんて、超ラッキーだなァ…」と思ってみる花火の方がなんか楽しくないすか?ほんでお前(ドヤ)じゃないんだよ、「正しいことを言う」ことが何においても優位に立つと思うな、感傷に浸ってた松ちゃんを十万馬力でねじ伏せちゃったじゃないの…

でもこれね、「ああ、クソリプだったなぁ」と思うようになったのはじつは最近のことで、それまで平然と無自覚に「正しさの暴力でぶん殴る」というのをやっていたわけですよ。

「科学の子」のみなさんいいですか、「正しいことを言う」というのは時として無粋なことがあるんです、いま論理的に正しいことを言おうとしてるな、と思ったら一度立ち止まって。本当にそれはいうべきなのか。もしかしたら「自分だけ気持ちよくなろうとしてる」んじゃないかと、一回問うてみてください。

「論理的に正しい客観的な事実」、それはたいていの場合、人々のどんな空想や解釈よりも強いです。だから言えてしまうし、言いたくなってしまう。手札に「勝てる」カードを手にしたときの高揚感がある。
だけどその正しさが、神様とサンタクロースと松ちゃんの花火大会のラッキー、夢と魔法の世界を全部殺してしまったわけで。(ちなみに、国立大機械工卒の我が父は、「ディズニーランドのアトラクションの仕組みを全部解読して回る」という最悪の会をやったそうです)
「唯一絶対の真理」なんてもの、差し出されたところでで「ああ、そうですか」としか言えなくなってしまう。それはみんながみんな、同じようにしか受け止められなくなることでもあるし、それ以上議論の余地がない一つの終焉、断絶でもあるんです。

そんなものより僕は、いま目の前にいるあなたが、そのあいまいさの中に何を重ねて何をみているのか、そういうものの方がみたい。そしてそれを大事に集めておきたい、最近はそんなことを思います。


…けど「科学の子」を封印したらしたで、僕は言うことがなくなってしまい、当たり障りのない「うん、いいね」しか言えなくなってしまうのだけど。(いや、「いいね」とは思っているのだ!ほんとうに)



駅前には、月食にスマホをかざして写真を撮る人たちがたくさんいた。
「どうせ誰が撮ったって変わりゃしないのに」、冷めた自分がどこかにまだいることにうんざりしつつ、そこにどんな思いを重ねるのか、それは人の数だけあるんじゃないのかな、なんて思ったりもした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?