ベッドの上で受ける授業と

今日の講義中の頭メモ。リモート授業は夢みがち。


接続詞。赤ちゃんは接続詞を使わない。
なるほど、メモしておこう。こうやってメモをしたノートに書いてあることを、後からまとめて一冊の本にしたい。だからノートは捨てずに置いておこう。

そんなことを考えているうちに、私は眠りについた。(メモをした気もしたが、それも夢の中での出来事だった。体育館の後ろの方にいた。)

夢の中で、中学の時のサッカーのコーチと会った。私たちは、バスケのインターハイ、地区予選の試合の最中だった(実際はサッカー部だが、夢の中では取り組んでいるスポーツがバスケになっている。場所は大学の講義室ようなところで、手前には卓球台があり、卓球台を挟んだ向こう側でみんなはバスケの試合をしていた。試合をしているコートは蛍光灯に照らされて青白く、奥は果てしなく暗い。夕暮れか、暗がりの中にある窓から空が見える)。
もう何年も経験していない試合のスピード感についていけない私は、ビブスの着脱もおぼつかず、こんな状態で試合にでたところでまともに戦えるのだろうか、、と不安に思っていたが、一向に自分の名前は呼ばれない。コーチも申し訳なさそうにしているが、練習試合ではない「真剣勝負」の場において、自分の出番はないのだろうなと悟った。
コーチは、ポケットからスタンプカードのようなものを取り出した。美容院でもらうような、名刺サイズの小さいカードに、いくつか丸が書いてある。記法のルールはわからなかったが、どうやらこれまでの練習の出席状況が書かれていた。思い起こせば、そもそも練習にはまともに参加していなかった。「試合にはできるだけ出してやりたいんだけどな、お前ももう今年で引退だしな」、とコーチが話す。でも、これじゃあな、といった様子でスタンプカードを見ている。
こういうとき、頑張れる人は、頑張るんだろうな、なんてどこか引いた様子で考えていた。悔しくて悔しくてしょうがなくて、認めてもらえるように誰よりも頑張って試合で活躍する、そういう物語の入り口。 だけどこのとき思ったのは、自分よりうまい人が試合に出て、いい結果に終わることの方がいい、私は外でそれを応援しているだけでいい、ということだった。プレイヤーではなくて、頑張っている人を外から応援して一緒に喜んでいる、それくらいの距離感でちょうどいいんだ、というのが素直な気持ちだった。今は、サッカーが自分に向いていなくて、代わりに興味の向くことがあって、ちゃんと頑張れることが他にあるって思えているからかもしれない。
でも中学生の時は、「この状況で頑張れない自分」を認めてしまったら、何か大切なものを失ってしまうような気がしていて、こんな消極的な自分を曝け出したら心底失望されてしまう気がしていて、だから言い出せないでずっと居た。
今の自分で、コーチに話した。
「なんか、気を遣ってくれるのは嬉しいんですけど、僕は、自分が試合に出たいって気持ちより、上手い人が試合に出て、チーム全体の結果がよくなった方が、僕は嬉しいと思うんすよねぇ、、」言い淀んでいたと思う。あとちょっと泣いてた。やっぱりちょっと不安で、スパッと言い切れない。コーチの目も見れなくて、足元にはサッカーボールがあって、だからそれをこねくり回しながらボソボソと呟いていた。




いいところで、目が覚める。夢を見てる時はいつもそうだ、オチの一歩手前で目が覚めてしまう。それより先を見る勇気がないのか。


気づくとzoomの画面が変わらないまま、誰も話していない。状況が掴めない、何か課題でも出されていたのかな、と不安になって友達に電話した。ちょっと泣いてた。休憩時間だったようです。


三島由紀夫のおすすめ小説は、仮面の告白、潮騒。今まで六回映画化されてる。
これは講義メモです

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