絶壁の全肯定オタク派閥~推しは好きだけど、でも自分はこう思うというジレンマ~
歌い手のニコニコ離れ
今に始まった話ではない
なんならその兆しは2-3年前には既に見え始めていた。
歌い手がニコニコ動画よりYouTubeの方が伸びると気づき始めた。
そしてそこからわたしの果てしない憂鬱が始まった。
YouTubeはあまりにも規模が大きかった。
世界のGoogleに日本の一企業が敵うものか。
江戸時代のニッポンが受けた激震がニコニコ界隈にも走ったのだ。
あの頃にも、変化する日本に対して複雑に思っていた日本人もきっといたのだろう。
どんどん西洋の文化が入ってきて、侵食されて、仕事や暮らしは大きな影響を受けたのだろう。
だが、投稿者がニコニコ動画に投稿しなくなる。ユーザーがニコニコ動画を見なくなる。という変化は、YouTubeの影響云々を問わず、
どんなに栄えた文化も流行もいずれは落ち着くことを思うと、別に特別な悲劇でもない。
盛者必衰の理をあらわす。
それでも古きよき文化の元に残っていてくれる人もいるし、自分の推しの歌い手にもできれば変わらないでいてくれないかという淡い期待をもっていた。
ずっと期待していた。
今も期待している。俺は諦めねえ(by誰か)
嫌なら見なきゃいいという優しい暴論
推しのニコニコ離れに対する憂鬱よりも自分にとってはるかに憂鬱だったのが、
変化をすんなり受け入れられない自分を、界隈に受け入れてもらえないことだった。
ニコニコ動画に投稿してほしいと願うことが、一部のあついファンの人から、なんてわがままな思考なのかと見なされる。
推しのやることが合わなければリスナーをやめるべきと言わんばかりの風潮もある。
そりゃさあ、YouTube派の人とか、プラットフォームはどこでも気にしないとかそういう人からしたら、大した問題ではないのかもしれないが、
思い出に愛着を感じて大切に思う感情を、そんなにバッサリ否定されると心に来るものがあるわけで。
この感情はそんなに悪いものなのかと意識し始めると、リスナーとして落ちこぼれたような呪いにかけられる。
それがあまりにも辛かった。
でも楽しかった場所を失うのは正直寂しいし、でも推しのことは変わらず好きだし、という無限のジレンマに長い間苦しんだ。
推しのやることなすことを全て肯定できないと、オタクって人権ないんだっけ。
悪夢のような日々だった。
オタクの役割
全肯定の思想が界隈に絶壁を作ろうとする。
推しを批判するものは排除しようとする。
これは歌い手界隈に限らず、Vtuber界隈なんかでも問題になっている気がする。
ここで決着をつけようじゃないか。
昔話をしよう。
今は卒業してしまったがアイドルグループにも推しがいた。(今は今のアイドルではない活動を応援している)
6-7年くらい前だったか、自分はそのグループのメンバー、つまり推しではない人の生誕イベントに参加した。
当時はアイドル戦国時代で、オタクもお互いに助け合いというか、そういう空気もあったから、キャパに余裕がありそうなら推しではない人のイベントにいくケースもありうる。
結論をいうと、自分はそのイベントにあまり満足できなかった。
まずイベント前物販がひどかった。
人員不足か手際がよくないのか個数制限もなかったからか、長時間並んだ挙げ句開演までに間に合わずに買えなかった。
2月に寒さに震えながら外で並ぶという苦行ミッションだった。
自分が時間的に買えないであろうなというのを気遣って、ツイッターで声をかけてくれたオタクAくん(自分より前に並んでいた)が代わりに買ってくれたので、そのときのストレスは緩和された。
そしてイベントだが、内容はトークイベントだったが、なんというか、正直うまく楽しめなかった。
もちろん一生懸命な姿は応援したいと思ったが、たぶん本日の主役の彼女は人見知りなのだろう、認知している前方の古参オタクたちとキャッチボールをしがちであった。
後ろの方の席で疎外感を感じて、まあ推してないしなと思いつつ、でもお金は払ってきたから、なんだかなあとモヤモヤした。
別に当時のツイッターはそんなにオタクがオタクを叩くような窮屈な監視社会でもなかったので、何気なくそんなモヤモヤをつぶやいた。
きつい文句の口調ではなく、やんわりと、なんだかたあ……みたいな。
暑かったから暑かったなあとつぶやくくらいの。
別に運営側を責めるとか、楽しそうなオタクをひがむとかそこまでの強い負のエネルギーはない。
その晩、そのイベントのアイドルが最推しで、推しからも認知されているオタクBくんからDMが来た。これは予想していなかった。
「楽しめなかったですか?(・・;)」みたいなメッセージだった。
そのオタクBくんは、純粋に心配してくれた。
推しでもないイベントに足を運んでくれたオタク仲間が、なんで楽しめなかったのかを気にしてくれた。
なんか~寒いなか長時間並んだのに~物販買えなかったし~~イベントも前の方と絡んでてちょっとつまんなかったな~~まじさげぽよだった~~などと(※当方ギャルだった時代はない)、若かりし自分はひとしきり愚痴をこぼして、
オタクBくんにそうだったんですね💦💦とねぎらわれて、そしてすっきりした。
ちょろ女は話をウンウンと聞いてもらえれば、けろっと機嫌を直す簡単な生き物である。
このエピソードをとりあげたのは個人の人間性とかイベントについて議論したいわけではなく、
オタクの役割について考えたいからである。
なのでこの件について深入りはしないでほしい。
全肯定オタクの正義。
物理的損失を防いでくれたオタクAくんや、精神的損失を補ってくれたオタクBくんのような存在は、神のように崇められていたとしても、とはいえ、一人の人間、未熟な点もある推しにとって、非常~~~~~~に重要だと思う。
全肯定オタク思想が蔓延し始めている昨今、尚更感じた。
ああいうオタクって、今はいないのかなあと。
やっぱ推しにとってファンは一人でも貴重だと、オタクが理解しているからこそ、気を配れるわけで。
それによって、かなり界隈の治安を安定させることもできる。
ところが昨今、例えば、ライブつまんなかったなどとツイッターでつぶやこうもんなら、は?推しの文句言うとか頭おかしいんだが???と匿名鍵RTされる、某掲示板に晒されるなどの洗礼を受ける。
DMでつらつらと説教されたこともある。(つまらぬなどとほざいたのはお前かよ)
推しを批判する意見は徹底的に排除したい全肯定オタクがどんどん勢力を拡大している。
確かに推しにとって批判されることはストレスである。人間だもの、それはそう。
オタクとしては推しのストレスは全力で遠ざけたい。その気持ちはわかる。とてもわかる。
そんな絶対的な正義を前に、どう太刀打ちできるというのか。
推しにとってオタクは何なのか。
オタクAくんやBくんも、推しに対しては文句を言わない、全肯定派だと思う。
推しに対する愛情レベルは等しいと思うが、
何が違うかというと、推しだけを尊重するか、推し以外も尊重できるか。
己の信じるもの以外を許せないから、人を導く教えとしては間違っていないはずの宗教が戦争やテロをまねく。
己の信じるものは絶対的に信じながら、そうではない存在を受け入れられると、いくいくは聖職者になりうる。
あんまり宗教の話を深く掘り下げるとまた複雑になってしまうので、ようは、同じ熱量でもどういう風に活かせるかによって大きく変わってくるという話。
喧嘩したらエエねん、人間だもの。
でもなあ、たいていの人間は聖人にはなれない。
できた人間など、そうそういない。
だから多少意見がぶつかってもいいのかなって思っている。
お互いに大事に思うものがあって、それを譲れないのは別にいいんじゃないかな。
YouTubeのコメント欄で長文であつく議論してるというリスナーたちも、すごくエネルギーとか熱量を感じて、なんかいいなとも思う。
自分も全肯定オタクに嫌われたとき、でもあの人たちはそれだけ推しが大事で推しのことが好きなんだなあっていうのは伝わるから、その熱量はなくさないでほしいとは思う。
なにかに対して、真剣でいられること、熱くなれること、それは人としてすごくいいことだと思う。
まあ昔推しにアンチと喧嘩すんなって言われたことがあるから、実際に喧嘩はしないけれど。
でもすれちがったりモヤったり、それでもそのなかで最善の答えを模索するのが人間だと思う。
ちなみにその全肯定できない悪夢から自分が解放されたきっかけは、
一生苦しんでツイッターを出入りしてたんだけど、
何ヵ月経ってもずっと変わらずいいねをくれるフォロワーさんの存在が大きかったです。
界隈に受け入れられていないと言ったけど、受け止めてくれる人も少なからずいました。
ありがとうございます。ありがとうございます。
世界は勧善懲悪で解決しない。
どっちも一理あるってことが実際は多い。
一概に悪いとは言えないとか。
でもちょっとずつ、ちょっとずつ、自分の大事なもの以外にも、大事なことが世の中にはあるということを、自戒も込めて、理解して、相手を尊重していけたら住みやすくなるのかなと思う。
そんなしがないオタクの所感にて、本記事をしめさせていただきたい。
P.S.
推しを全肯定できなくて、モヤモヤするオタクに、
『空の青さを知る人よ』という映画が刺さるなと思う。好きな人はいる、でもそれとは別に、空の青さを知っているからこそ、譲れないことはある。
AY
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