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生きること、愛すること。 ああ、魔法みたいだなあ。

今日は生きるを進化させる探求ゼミの日。テーマはコンパッションとコミュニティナーシング。
今年はコンパッションについてより学んでいきたいと思っていたので、迷わず参加した。
私がお寺で活動してみようと思ったきっかけになったおふたりがスピーカー。激アツ。
中身濃くてずっとフリーズしてた。
1番印象に残ったのは、ごえんさんの
そもそも「生きる」ってどういうこと?
という問いになんかどきっとした(笑)
自分にとって生きるって?
逆に死ぬって? どういうこと?
改めて考えさせられた。
どんな時に生きているなあと感じるか考えた時、
痛いこわい時と、誰かが元気に笑顔になった時と思い浮かんだ。

ここ数年、持病の再発を繰り返したり、思いがけない病気になったり、思うように体調が整わなかった。その度に痛いこわいと嘆いていたし、天井を見つめる他ない日もあれば、意識がぼやけていた日もあった。
痛いこわいから今すぐにでも逃れたいと思っていたけれど、そう簡単にはいかなかった。あるとき、担当していた利用者さんが言っていた「痛いもこわいも生きている証拠でしょ!」という口癖がものすごく腑に落ちた。
あの痛み、こわさは忘れがちな生きている実感を持つためのものだったかもと。あとは生きている以上、自分の体の替えは聞かないのだから大切にしなさいというサインだったりもするのかなとおもったり。
体調が大分整ってきた今は、痛いこわい時期で得た気づきに感謝しながら、戒めながら(次無茶したらどうなるかわかっているよね?と定期的に自分に言って笑)生活している。

コミナス4年目になり、いろんな場所で形でアクションさせていただいた。
私のアクションが目の前の相手や、何かしらの形でめぐりめぐってどこかの誰かを元気に笑顔にできていたとわかった時、身近な住民さんが元気にしあっている姿を見た時は涙が出るほど嬉しいし、生きている実感が湧く。
住民さんが亡くなることもあるけれど、焼香させてもらったり、思い出話をしたりすることが、想像以上にグリーフケアに繋がることもあったり、話を聞いてもらえて良かったと喜ばれることもあった。
ずっとずっと、誰の何者にもなれないしょうもない私にも、みんなのそばで誰かを元気に出来るかもしれないと思えた出来事達に救われて生きてきたんだとあらめて気づく。コミュニティで互いが支え合えることも、コンパッションに繋がっていくのだろうか。

今回のnoteのタイトルは、高校生の頃によく聴いていた歌の一節。ふと思い出した。
いつまで経っても生きるのハードモードで、私には使いこなせない魔法のようなものだなあとも感じる。愛することもまた同じ。
私にとって生きることは、自分の身やまわりに起こることを、抵抗せず包み込むようにまるっと引き受けていけることなのかなぁと思う。
溶け合わぬ強さより、染まり合う優しさで。
なんとなくの感覚、これからもっともっと進化したいよね。
生物学的には生きているけれど、よく生きれていないような。精進するしか。
これからの1年。もっとコンパッションについて学んで深めたい。
そして、本を読めど、ワークをすれど壁にあたって進まない、セルフコンパッションも学んで実践出来たらと思う。
探求ゼミ、これからまた楽しみだあ。

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