オウム
ここまで、自分のがんと医療の事を中心に書いてきましたが、ひとやすみ☆一つ、別の記事を…あげます(=゚ω゚)ノ
自分のちょっとした記憶だけど、書いておくべきかなって。
過去に、オウム真理教の勧誘冊子が、我が家のポストに入っていた事があった。
普通は読まずに捨てるんだろうけど、とりあえず勧誘で、何を言ってるのか、全部読んでやろう。と思って読んだ。
当時はテレビ等のメディア、ティーン雑誌などで、麻原は、
ちょっとうさんくさい。でも、おちゃめで、おもしろそうな空中に浮くヒゲのおじさん。
的な感じで。選挙にもでてたし。
ずいぶん、マスメディアに、もてはやされていたような。
わずかな記憶ですが…。
冊子の内容ですが、信者さんがオウム真理教に入っての感想をまとめたようなものでした。
「オウム真理教に入って、宝くじが当たりました。成績があがりました。彼女ができました。」
おぃおぃおぃ。君らコントか?
っていう内容が、ちらほら混ざっていたよ。ここの弟子、大丈夫か?っていう。
私利私欲。いわゆる宗教観というものとは真逆。っていう所を、最初のとっかかりの部分の宣伝では、突いてきてると感じた。
それを作った人達が
「愚民どもには、これくらい俗な事を紹介しておけば、釣れるだろう。」という、上から、だったのか。
それとも、本当にそういう、金、成績、異性にもてる。という自己顕示欲を満たすのが、ある意味、幸せのかたち。と思っていたのか。
それは、私には、わからないです。
入ったら、いい目をみれそうかな。
っていう、”人の欲、人の弱さの部分” を、突いてた印象を自分は持ったよ。
でも結局、こんな風に信者の数だけ、集めても、馬鹿の頭数を集めてる感じになってしまって、どうみても、弟子のクォリティは、ポンコツが増える傾向になりそう。
(今のいろんなファンビジネスにもいえるかもだけど。ちゃんとした、質の高い本気度の高いものをだして、それに共感する質の高いファンを増やさないと、単に数だけを、増やしても、集団がいまいちっていう。)
ここで、話は少し変わりますが
これはオウムじゃなくて、別のちょっと変わってる新興宗教の話だけど、当時の友人が出入りしてて、自分、ついていった事があった(爆)
世間より、人の好さそうなおじさんおばさんが多くて、居心地いい感じだった。
微妙な”選民意識”っていうのかな。ちょっと自分の特別感?優越感?も感じた。
あと、居場所(ポジション)がある気がした。役でもついたら、その閉じた世界で、自分が居てもいい居場所が、しっかりある感じ?になれるかもしれないと思った。
でも、自分は、友人はそこにいても、その新興宗教には、入っていこうとは、思わなかった。自分で、いろんな方向から考えてみた結果として…。
ちなみ宗教は否定しない。いいと思う。自分は特定のものは、ないけれど、信仰は自由。信じるものがあることで、土壇場で強くいられるかもしれないし。心の支えがあるというのは、いいもの。
でも、まわりの人に、迷惑をかけはじめるような事になっていったら、アウト。だけれど…
オウムの事に戻ると
シヴァ神を信じていたんだよね。シヴァに関する神話では慈悲深い様を示す描写がある一方で、対照的に恐ろしい性質を見せるエピソードも多く語られ、曖昧さとパラドックスの神。
(こっから想像のバイアスが入りますが)
思いっきり持ち上げられてたマスコミに、手のひらを返されて突き落とされてたよね、選挙にも落とされてたよね。
かつ、世の中を変えていけるほど組織や弟子がぜんぜんパッとしなければ、
もしもシヴァ神のとおりにいこうとすると、選ばれし民のプライドを傷つけられたら、逆襲で、破壊で正当化するしかなかったのかな。組織を守るという名目で。もし、誇り高くあることにへんな信念を持つならば。
結果として、神の選択というより、馬鹿の選択にしかうつらないけれど。
そういう事を、しっかり暴発の可能性として想像してて、その時に、大事件が起きる前に、起きている現実を的確に見抜ける人、動ける人(特にメディアや公的組織の人)が多くいれば、
なんとかなってたのかな?今となっては、わからない。(すいません。ちょっと想像の域になってきたので、すごーく適当に読んでください。)
でも、麻原に魅力は本当にあったかもしれないし、宗教の勉強もしただろう、子煩悩でも嘘じゃないだろう。自分の子は、自分の私利私欲の私の域。子供さんが、麻原は、いいパパの一面がありました。
といっても、誰にも、せめる筋合いはない。それはそれと思う。麻原の子供さんたちは加害者でないし、洗脳の名残があるようであれば、なんとか解いて、助けるべき存在。って思う
ただ、オウムのやったことは、無差別殺人。
救済の名目のもとに、自分たちの都合の悪いものにふたをするがごとく、
私が死んでいたかもしれない。あなたが死んでいたかもしれない。家族が死んでいたかも。被害で後遺症が残ったかもしれない。
一度、自分が被害にあうと思って考えてみた。とても悲しい。悔しい。
また、そういうことが起きない為に、大きな事が起きてしまう前に、気づける人間になりたいものだな。
その為には、しっかり犯罪を犯した人たちには、話せるものは全部話させて、
そういうものを生んだ、放置していた、もてはやしてた、みなの責任として、考えていけたら、未来にむけては、それがよい選択だろうって自分は思うけれど。
なんか。もやもや~っとした結末に、むかっているよね。
「自分たちの都合の悪いものにふたをするがごとく」っていう、そういう選択になっていないかな…って。少し、危うさを感じた。
(ぜんぜん関係ない話になるけど、最近、ネトウヨに違和感ある。やってる人はエンタメっぽいんだけど、ちょっと気味が…。
いろんな方向で、ひとまず自分で考えてみることで、自分が新興宗教に入っていくことを、際どい所で選択しなかった過去があるからか。(;'∀')
自分の頭で、多方向の切り口で、思考することで、何かを回避できることが、あるとしたら…?考え方が、一方向に、同じ方に突き進む系って
何に関してもだけど、思考停止っぽくて、ちと、ゾワゾワ~っとする時がある(゚Д゚;))
※今日の記事関しては、
デリケートな事でもあり、多数の被害者の悲しみを抱えた凶悪事件であります。
自分個人のちょっと思った事を書いてますが、こんな事を想像した人も、一人いるんだなって。話し半分くらいな感じで読んでいただく事をおすすめします。
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