ぼくはどノーマルかもしれない / ドレスコーズ「エゴサーチ&デストロイ」PARALLEL VIDEO from『平凡』 に関する考察・書き散らし

……うん。良すぎる。
良すぎるので、今衝動で文書いてます。
まずは黙って上のMVを再生してください。すみません、話はそれからです。

『エゴサーチ&デストロイ』
2017年2月27日にドレスコーズの5thアルバム『平凡』のリリースに先駆けてYouTube上に公開された、いわゆるリード曲にあたる楽曲です。


……と、本題の前に自己紹介をしておきましょう。わたしはゆこなると申します。オタクです。
もともとドレスコーズというバンドおよび『平凡』というアルバムの存在自体は認知していました(知っていたというだけでドレスコーズにすごく詳しいというわけではないです)。
Spotifyのおすすめにこのアルバム『平凡』が突如現れ、偶然再生ボタンを押した瞬間のあの衝撃を忘れられないまま、2年くらい経っていまに至ります。むろん、いまだにこのアルバムを夢中になって聴いています。本当に名盤だと思います。最高。

……でも、このMVの存在は今日になるまで知りませんでした。
遅い! あまりにも遅すぎる。なんで気づかなかったんだ今まで!

MV観て本当にびっくりしました。曲自体当然最高なんですけど、MVで観たことでこの曲・そしてアルバム『平凡』に対する理解の解像度がめちゃくちゃ上がったからです。ざっと1000000倍くらいは理解度高まったと思う(オタク特有の誇張)。圧倒的!


……と、そんな感じでいま衝動的に文を書いてるというわけ。
えっ、6年前の曲の感想を今になって書くのかって? 別にいいんだよ! 昔のMVであっても今知った人からしたら新しい供給なんだよお~~!!!!

ともかく、もしあなたがこれまでこの曲(およびアルバム『平凡』)を聴いたことがないなら絶対聴いてほしい。ついでに誰でもいいからわたしのこの衝動を受け止めてください。本当に。お願いします。どうかわたしを助けてくれ。

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ドレスコーズの新作『平凡』は、“ごくごく近未来の世界で発表されたとあるバンドの作品”という設定のコンセプトアルバム。個性的であることが恥ずべきこととされ、バンド演奏、アート活動などが嘲笑の的になっている時代において、アーティストはどうあるべきか、また、何を為すべきか?
――あまりにも切実なテーマが反映された本作の最大の魅力は、じつはそのコンセプトワークではなく、“音楽そのもの”であると言っていい。

https://realsound.jp/2017/03/post-11704.html

アルバム『平凡』の特設サイト『エゴサーチ&デストロイ PARALLEL VIDEO from 平凡』(以下「MV」と記載)のビジュアルを見比べればわかる通り、このMVは『平凡』というアルバムの世界観をまるまる背負って、これから『平凡』を聴くかもしれない人々へ向けてその世界を説明し、知らしめるために公開されています。
MV上には『平凡』のアー写にも登場するスーツ姿の志磨遼平さんが現れ、曲のタイトルやクレジットには一見キリル文字のようにも見える特殊なローマ字フォントが共通して使われています。アルバムの世界とMVの世界はあきらかにつながっていて、時空が共有されているのです。

しかしこのMV、単なるMVではありません。「PARALLEL VIDEO」という他では見ないタイトルを冠して公開されています。
PARALLEL、パラレル ―― その言葉が使われているゆえんは、MV版とアルバム収録版で使われている音源そのものが違うという点にあります。
例えばMVの0:16地点で入る目覚まし時計の音、0:53地点から始まるボーカルのパン振り、1:23~・2:30~の掛け合い台詞はアルバム版にはありません。

メタ的に言えば、これは単純にMVに合わせた演出として編集されたもの……なのでしょう。でも、じゃあなんでアルバムの内容告知のために公開されたMVにアルバム収録版の音源をそのまま使わなかったのでしょう。わざわざ音源を編集してまで映像優先でMVを作り、「PARALLEL VIDEO」という形で公開したのは何故?
はじめてこのMVを観た時、真っ先に抱いたのはそんな疑問でした。

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『平凡』は、先に引用した内容の通りコンセプトアルバムです。
個性が抑圧され、皆が同じように「平凡に」生きていくことがよしとされる世界のなかにいるアーティストの物語。そんな中で彼らは何を歌い、どんなことを思うのか。

アルバム『平凡』は、曲を順を追って聴いていくことで、そんなディストピアの中の彼らがどんなことを歌っているかをなんとなく察せるようになっています。

人は生まれながら 誰もが皆common

Track1『common式』

ありふれた人に ぼくがなれたら
その時は ぼくこそが神様

Track3『マイノリティーの神様』

「平凡」であること、「平凡」であろうとすることこそがこの世界のスタンダードである……そう説くような内容。
おそらくこの世界においては、「人々は個性を捨てて平凡であるべきだ」と啓蒙するために音楽が使われているのでしょう。音楽や美術・演劇のような分野はいにしえから(そして現在においても)、真っ先に抑圧・検閲を受けてはなにかしらのプロパガンダに利用されてきていますからね。

『エゴサーチ&デストロイ』はアルバムの7番目に収録されている楽曲です。アルバムを通しで聴いて『エゴサーチ&デストロイ』にたどり着くためには、このような「平凡を説く曲」を6曲も経なければなりません。
この6曲は、ある曲はストレートな啓蒙の体で、ある曲はラブソングのような体で……と形を少しずつ変えてはいるものの、どれも皆一様に「平凡は当たり前のこと」という価値観を前提とした詞であるように感じられます。
聴き手はこの6曲を経て「なるほど、このアルバムは平凡が推奨される世界の話なんだろうな」となんとなく分かったうえで、7曲目『エゴサーチ&デストロイ』と出会うことになるのです。

しかし、YouTube上でこの曲を単体で聴くとなると話は変わってきます。
この曲のアルバム版だけを単体でそのまま聴くということは、さながら映画を観るときに重厚な物語を全部飛ばしてバトルアクションシーンだけを切り取って観ているようなもの。
「平凡が推奨される世界の人が歌っている曲である」という前提が、アルバム版『エゴサーチ&デストロイ』だけを単体で聴いた人たちには共有されないのです。

もちろん迫力あるバトルシーンを単体で観るだけでも十分魅力的だけれど、おそらくこのMVでドレスコーズが伝えたい『エゴサーチ&デストロイ』の魅力はそれだけではない。
この曲に本来流れていた文脈を、少し音源を弄ってもいいからMVだけで伝えられるようにしたい……そんな意図があったのだろうと思います。

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1:23~、スーツ姿の男性が「君は何を探している?」と問うと、ボサボサ髪の男性は震える声でこう答えます。

「ぼくは 'me' を探している」

……「'me'」とは何か。
『平凡』というアルバムの文脈から考えれば、抑圧されている「個性」のことと考えて間違いないでしょう。

スーツ姿の男性(以下「スーツ」)とボサボサ髪の男性(以下「ボサ髪」)は、MV中でほとんど同じ動作をしています。ふたりともカラフルな絵の具を浴び、煙草を吸い、部屋を散らかし、卵を鏡に投げつけて割る……
でもその実、MVを観ている我々の目にはスーツとボサ髪がまったく対照的な行動をとっているように映ります。まるでボサ髪が「'me'」を探して散らかした部屋をスーツが片づけているかのように。スーツが自ら進んでボサ髪の尻ぬぐいをしているかのように。
理由は単純、このMVにおいてスーツの映像はほとんど「逆再生」されているからです。(逆再生なのに曲と口パクが合ってるのヤバすぎますよね……!?)


3:41~、スーツとボサ髪は別々の歌詞を歌い始めます。
そのうちパンが右に振られている方、つまりボサ髪が歌っている方の歌詞は、アルバム版には存在しないMV限定のものです。

ぼくは普通さ 目指すヒューマノイド
これからはきみも フィロソフィーの殻

公式の歌詞がないため正確さは保証しかねます

「ぼくは普通さ」
「'me'」を一生懸命に探していたはずのボサ髪が、曲のクライマックス直前にこんな歌詞を歌うのです。

では、ボサ髪が探していた「'me'」とは、「個性」とはいったい何だったのでしょう?――
3:41のこの歌詞に至る前の時点で、すでにその答えは書かれていました。

あいまい 'me' とは ありがちな存在

あいまい 'me' とは あなたとも等価値

そう。「'me'」とは即ち「ありがちな存在」であり「あなたとも等価値」なもの。
……つまり、「'me'」とは「平凡」

この歌詞を見れば、そんなふうに思えてきませんか?

スーツは「'me'」などないということ、「'me'」が「平凡」とイコールであることにすでに気が付いていて、それを受け入れている。だからスーツは「'me'」を探すボサ髪に対して「そうなんだ、ハハハハハ」と笑うのです。

そして「'me'」を探すボサ髪とその片づけをするスーツが実は全く同じ行動をとっていること……つまり「個性を求める人が没個性的な人と同じ行動をとっていること」それ自体が、「'me'」が「平凡」とイコールであることの証明になってしまっています

ボサ髪は曲の最後、スーツと同じ服をまとい、曲冒頭のシーンに戻る様な形で眠りにつき、目を覚まします。ボサ髪は自らスーツと同じ存在……個性のない「平凡」な存在となるのです。
スーツのような『平凡』を身に着けたボサ髪はきっと、新たに現れた別のボサ髪のような存在に、自らがそうであったときと同じように『平凡』の存在を説くのでしょう。

このMVは『平凡』というアルバムの中で表現された世界観を凝縮して伝えるために生まれた、アルバム版『エゴサーチ&デストロイ』とは別の立ち位置にある作品なのだと思います。

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ところで。
歌詞を見て気づいた方も多いと思いますが、『エゴサーチ&デストロイ』のサビの歌詞は金子みすゞの詩『わたしと小鳥とすずと』を踏まえた内容になっています。これめっちゃ皮肉ですよね。この歌詞の内容にこのMVつけるの、正直めっちゃスリルがあって怖いなと思います。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

金子みすゞ『わたしと小鳥とすずと』

何回も観れば観るほど、個性を追う者への皮肉がミルフィーユのように重なっているのが見える。それがこのMVや曲の凄さだな……と思います。多分わたしはこれからも繰り返しこのMVを観ては、ここに書ききれていない世界観の恐ろしさに気が付いていくのでしょう。
……こうやってこの曲をストレートに読み解けば、個性の無さを説かれ、そして没個性のなかに沈んでいく人の歌のように聞こえます。まあ鬱曲鬱MVって感じですよね。

でもわたしは、きっと『エゴサーチ&デストロイ』はそれだけの曲じゃないのではないかと思っています。
なぜならこの曲は『平凡』というアルバムの中に収録された、「ごくごく近未来の世界で発表されたとあるバンドの作品」だからです。

たしかに『平凡』の世界では個性が抑圧されています。個性的なことが許されておらず、平凡が推奨されているからこそ、このバンドはアルバムを通して表向き平凡を歌い続けています。
でも、はたして本当の意味で平凡な音楽を作る、作りたい音楽家などこの世界にいるでしょうか? 表現をする人は、自らが非個性的であることを我慢できるでしょうか?

わたしが『平凡』をつくるようなアーティストの立場だったら、きっとどこかで個性を抑えられなくなると思います。そしてめちゃくちゃ苦しむような気がします。

だから、彼らは表向き人々に受け入れられる歌をつくりながらも、実はその陰でみずからの個性を発揮できる瞬間を息を潜めて待っているのではないか……そんな風に思うのです。
こんなに素晴らしいアルバムを作る彼らなのだから、わずかにでもそういう反逆の心みたいなものを持っていてくれたら嬉しいな……と、わたしはそう願っています。

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……すみません、めっちゃ平凡な内容を書いてしまった気がする。
『エゴサーチ&デストロイ』はほんとうにヤバい曲で『平凡』はド名盤、そしてこれらを世に送りだした志磨遼平という人は本当の天才。長々と文を書いてきましたが、最終的にわたしが言いたいのはそれだけです。


アルバム『平凡』は音楽配信サイトで配信されててすぐ聴けるので全人類絶対聴いてください。とりあえずSpotifyのリンク貼っときます。いいか、聴けよ。絶対だぞ。

ということで、ご清聴ありがとうございました。

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