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お文の憂鬱・1

―なんでこうなったんだっけ―

お文(ふみ)は、箸を持つ手を止めて、ぼんやり考える。

今日の夕餉(ゆうげ)のお菜(かず)は、鰯(いわし)の梅煮だ。生姜と梅干が魚の臭みを消してくれている。味もよく沁み込んでいておいしい。


「今日、鶴(つる)松(まつ)さんが魚政さんから鰯をたくさん仕入れたからって、お裾分けしていただきました。鰯の梅煮の作り方も教えていただいて、本当に助かりました」
 銀四郎(ぎんしろう)が下がり気味の眼尻を、さらに下げて言った。


 鰯は銚子あたりで「入梅(にゅうばい)鰯(いわし)」と呼ばれる初夏が旬だと言われたり、脂の乗った冬がいいと言われたりしている。一方で、節分には欠かせないなどと言われてもいる。要するに、季節を問わず安く手に入りやすいので、庶民の食膳によくのぼる魚だ。

 深川では鰯の干場が作られており、小さい鰯は干(ほし)鰯(か)と呼ばれ田畑の肥料にも使われている。
「おっ母さん、その鰯の梅煮どうです?」
 銀四郎に問われ、仕方なく「おいしいよ」と小さい声で答えた。

「ほんと、おいしい。生姜と梅干が入っていてさっぱりしているもの。あ、鰹節も入ってる」

 お凛(りん)がしみじみと味わいながら言った。
「その鰹節と梅干は、煎り酒を作った時に残ったものだよ」
「え? この鰹節と梅干は煎り酒の残ったもの? 残ったものでも、こんなにおいしい煮物が出来るのねぇ。鰹節なんて、身がちょっと固くなってるけど味がよく沁みていて、おいしい」
銀四郎の言葉に、お凛は驚いたような声をあげる。
 

何? 残りかす? かすなんぞ食わせやがって。

 お文は急に腹立たしく感じ、鰯の梅煮を食べる手を止めた。
「お凛、あたしの分もあげるよ。ごちそうさま。ちょっと鶴(つる)松(まつ)のとこへ行ってくるよ」
鰯の入った小鉢をお凛に渡し、お文は下駄をつっかけた。
「えっ、今から? ちょっと、おっ母さん」
お凛の呼び声を背中に聞きながら、腰高障子を後ろ手で閉めた。

 りーん、りーん。

外へ出ると、どこからか鈴虫の鳴き声が聞こえてきた。

昼間はまだ夏の暑さが残るが、日が暮れると秋の気配が感じられる。
銀四郎(あいつ)がうちに来てもう一年経つのか。時の流れの早さを感じた。
お文は、もう一度ぼんやり考えた。

―なんでこうなったんだっけ―


銀四郎がお文の元を訪れたのは一年前の今頃、袷(あわせ)に綿を入れた頃。空が高く澄み渡り、すっきりと晴れた秋の日だった。

その日は、いつもより仕事が早く終わった。

昼八つ(午後二時頃)の鐘の音(ね)を聴きながら、相生町の長屋へ戻った。
お凛はまだ帰っていなかった。午前中は、林町の家に行って一緒に仕事をしたのだが、昼食を済ませると、お互い別々の家へと向かった。

午後は確か、馬喰(ばくろ)町(ちょう)って言ってたっけ。

お文とお凛は廻り髪結いをしている。仕事道具の入ったびんだらいをぶら下げ、お客の家へ出向き髪を結うのが生業(なりわい)だ。


 がらり。

入り口の腰高障子が開き、お凛が帰ってきた。
「あっ、おっ母さん。ただいま」
驚いたように眼を大きく開きながら、お凛は家に上がった。そのすぐ後ろに、ひょろりと細長い男がいた。
柿渋色の着物に黒い長羽織を羽織っている。男はお文の姿を認めると、上がり框(かまち)に手をつき、いきなり頭を下げた。
「お凛さんと所帯を持つことをお許しください」
「はっ? えっと……どちら様?」
「ちょっ、ちょっと、銀四郎さん。まずは上がって」
 お凛が男の腕を引っ張り、部屋へ上げた。
 

男は、家に上がると正座をした。
畳に手をつき、汗をかきながら改めて自己紹介を始めた。       「あ、すみません。あ、あの、私は、日本橋室町で小間物問屋を営んでおります、伊勢屋(いせや)金(きん)右(え)衛門(もん)の息子で、銀四郎と申します」
「伊勢屋って、あの伊勢屋さんかい」
 

伊勢屋は、四代続く老舗だ。奉公人は、住み込みと通いの者を合わせると、五十人近くにもなる大店(おおだな)である。
元々は、銀四郎の曽祖父が担ぎ小間物の行商から始めた店だ。初めに店をかまえた場所は、神田紺屋町だった。櫛や簪(かんざし)、笄(こうがい)を主に扱う店で、そこから徐々に客筋をつかみ、晴れて日本橋室町に店をかまえた。
日本橋に移ってからは、卸売業と小売業を兼ねている。銀四郎の祖父の代で十組問屋へ加入し、商品の幅を広げ、豪商へと成長した。
神田紺屋町の店は、小売業専門で二男の鉱(こう)次郎(じろう)が任されている。
そして、伊勢屋はお文とお凛の仕事の得意先だ。女中の髪を結いに、七日に一度は訪れる店でもある。

息子がいることは知っていたけれど……。

お文は、眼の前の男を見たことがなかった。いつも伊勢屋で会う息子は、長男の鏡太郎(きょうたろう)だけだった。
「うちの女中たちの髪を結っているお凛さんを見て、一目で、その、好きになってしまって」
 顔を朱色に染めて、盆(ぼん)の窪(くぼ)に手をやる銀四郎を、お文は呆けたように見つめるばかりだった。
よく見ると、色白で整った顔をしている。一重(ひとえ)で切れ長の眼だ。眼尻が下がり気味なところが惜しい。でも、その眼尻のお陰で、愛嬌を感じさせた。
「よく知らないけどさ」お文はそう前置きしてから、銀四郎に問い訊ねた。
「伊勢屋さんほどの大店の若旦那ってのは、親がお内儀さんになる人を決めるんじゃないの?」
「あ、いえ、あの……本当はそうなんですけど」
「やっぱり。じゃあ、この話しはあんたの親御さんの了解は得てないってことだね」
「うっ、でも……大丈夫です。私は、三男です」
「……で?」
「あの、なので、伊勢屋は上の兄さんたちがおります。お父っつぁんも、まだまだ元気でして、今はまだお父っつぁんが店の一切を取り仕切っております」
 だから何だというのだろう。お文は、銀四郎の言いたいことがいまいち飲み込めない。
「だから、私が家を出たところで、店はびくともしません」
 別にあんたの店を心配してるわけじゃない。
 お文はそう口に出しそうになるのをぐっと堪(こら)えて言った。
「それにしたって……大店(おおだな)の若旦那と廻り髪結いの娘とじゃぁ、釣り合わないだろ」
「私はもう伊勢屋の者ではありません」
銀四郎は、やけにきっぱりと言った。
「こちらへ婿養子として入れさせていただきたいと思います」
「はっ?」
 

何言ってんだ、こいつ。

お文は頭の中が真っ白になった。
そのままお文が二の句が継げずにいると               「今日から、おっ母さんと呼ばせていただきます」           そう言って、銀四郎はひとなつっこい顔でにっこり笑った。
「婿養子ったって、お武家でもあるまいし」
「あ、いえ。そんな堅苦しいことではなく……。ただ、その、人別帳に私の名前を書き加えていただければ……」
 だんだん腹が立ってきた。
「あのね、急に来て、勝手なことをべらべらと。伊勢屋はお得意さんだよ? その得意先の息子を伊勢屋の主(あるじ)の了解も得ないで所帯をもたせるなんて。うちの娘が、あんたをたぶらかしたなんて言われるかもしれないだろ? そしたら、あたしとお凛は得意先を一つ失くすことになるんだ。あんた、それをよくよく考えて行動してんのかい」
 お文の言葉に、銀四郎はみるみる青くなった。
「そんな。たぶらかしたなんて」
「世間はそう見るんだよ。分かったら、さっさとうちぃ帰(かえ)んな」
 お文はにべもなく言った。
「あ、でも大丈夫です。お凛さんの名前は言ってません。『探さないでください』と書き置きをして出てきましたので」
「そんなこと書いたら、お番所に届けを出されちまうじゃないか。さっさと帰れ」


なんて無鉄砲な奴。バカなんだろうか。
お文は怒りを通りこして、あきれ果てた。
「おっ母さん」
 お凛は銀四郎の横に座り畳に手をついた。
「お願いします。銀四郎さんを、うちへ置いてあげてください」
「置いてあげてったって……部屋は狭いし」
「でも、うちは二部屋あるじゃない。こっちはおっ母さんが使って、奥の一部屋をあたしと銀四郎さんが使うから」
 お文たちの住む家は、九尺三間(約三×五・五メートル)の間取りで、四畳半が二部屋ある。猫の額ほどの広さだが庭もある。
「夫婦でもないのに、あんたとこいつを同じ部屋に住まわせるなんて冗談じゃない。バカも、休み休み言いなっ」
 お文は怒りで大声を張り上げた。
「で、では、私ひとりで部屋を使わせていただきます」
 青くなって言う銀四郎に「店賃(たなちん)はきっちり払ってもらうからね」と、鋭い眼で睨んだ。
 鼻梁(びりょう)が高く、二重で眼尻がキリリと上がったお文の顔立ちは、睨むと凄みが出た。
「は、は、はい」
 背筋をピンと伸ばし、返事をするのがやっとの銀四郎である。
「店賃ってことは……銀四郎さんがここに住んでもいいのね」
 お凛が弾むような声を出した。嬉しさで頬を上気させている。
 しまった。つい店賃だなんて言っちまった。
「あれは、ほらっ、ものの弾みというか、その、なんて言うかさ……住む、とか、住まない、とかってのとはまた別の話しっていうか」
 珍しくお文が歯切れ悪くもごもごしていると、
「どうか、どうか、お願いします」
 若い二人は声をそろえて頭を下げた。
 お文は軽いめまいを覚えた。

その日以来、銀四郎はお文の家に居続けている。

店賃は・・・一応、払っている。

家からもらっていた小遣いを貯めていたらしい。いい歳をして小遣いをもらっていたということも、お文の神経に触る出来事ではあったが。

伊勢屋の方で心配しているだろうと、銀四郎が押し掛けてきたその日に、 お文が伊勢屋へ出向いて行った。
丁稚(でっち)の小僧に、店の通り土間へと案内された。
お文が女中の髪を結う時に通される場所である。
お文の前に現れたのは、古参の大番頭の弥(や)兵衛(へえ)だった。髷(まげ)にも鬢(びん)にも白いものが混じっている。
「銀四郎さんは、あたしのうちにいます。なんでも、髪結いの仕事を仕込んで欲しいとかって言いましてね。あたしらの仕事を見ているうちに興味を持ったとか」
 まさか自分の娘と所帯を持つため居座っている、とは言えず、それらしい嘘をついた。
 弥兵衛は大いに驚いた。
「えっ、そうでしたか。突然、書き置きだけを残し、いなくなっておりましたので。こちらでも大変心配をしておりました。まさか、お文さんのところでお世話になっていたとは。髪結いの仕事に興味を持っておられていたなど、全く見当もつきませんでした」
 弥兵衛は恐縮しきっており、お文は少し胸が痛んだ。
「でも、居所が知れて安心いたしました。お知らせくださってありがとうございます。お文さんの方からわざわざお越しいただいてしまって、大変申し訳ございませんでした」
 弥兵衛は、これ以上低くできない、というほど頭を下げた。
「そんな、頭を上げてくださいよ、大番頭さん」
 弥兵衛の平身低頭ぶりに、お文の方が恐縮してしまう。
「そのお礼と言ってはなんですが……あ、おかつ。久助を呼んできておくれ」
 弥兵衛は、台所にいた女中に告げた。
 ほどなくして現れた、二番番頭の久助に小声で何かを告げた。久助はすぐに奥へ引っ込み、しばらくしてから、風呂敷包みを持って再び現れた。それを弥兵衛に手渡す。
「こちら銀四郎坊ちゃまの当座の金子(きんす)でございます」
 お文は風呂敷包みの受け取りを何度も断ったのだが、弥兵衛に無理やり持たされてしまった。

渋々受け取り、家に帰って包みを開けると、切り餅(二十五両)が二つ入っていた。
 江戸の庶民は、一両で一月(ひとつき)は働かずに暮らせる。
「ひえっ」
 お文は、心の臓がはね上がった。
「うわっ。すごいお金」
 お凛も眼を丸くしている。
「おっ、その金でこれから八百(やお)善(ぜん)にでも行きますか」
 銀四郎がほくほくした顔で言った。
「バカかっ。あたしらみたいな素っ町人がそんなとこ行ったら盗んだと思われるだろ。こんなの恐ろしくて使えるわけがない。見なかったことにする」
 伊勢屋に戻すわけにもいかず、風呂敷包みごと柳行李(やなぎごうり)の中へ放り込んだ。
「あぁ、勿体ない」
 銀四郎の情けない声も、聞こえなかったことにした。

銀四郎は、「居候の身なので、せめて私が家のことをします」と廻り髪結いとして歩き回っているお文とお凛の代わりに、家事の一切を引き受けると言い出した。
 しかし、今まで飯炊きはおろか、掃除も洗濯も自分でしたことのなかった銀四郎である。
 まず、朝早く起きるのでさえ一苦労だった。
 お文に布団を引っぺがされ、蹴飛ばされてやっと目を覚ます始末だった。
 飯を炊こうと火を起こせば、竈(へっつい)から火柱が上がりそうな勢いにしてしまい長屋中大騒動になった。隣近所の人々に協力してもらい、慌てて水をかけて消化し、なんとか火事にならずに済んだ。
魚を焼こうとすれば、部屋の中で七輪を使ってしまい部屋中煙だらけにしてしまう。大量の煙に燻(いぶ)され、お文は自分が燻製(くんせい)になったような気がした。
皿を洗えば必ず一枚は割った。
 畳を雑巾で拭こうとすれば、よく絞らないまま畳を拭いてしまい水浸しにしてしまい、お文の怒りを買った。そのまま放置すれば畳が腐ってしまうので、仕方なくお文とお凛で乾いた布で水をふき取った。
 洗濯の際は、布をもみ洗いすれば力を入れ過ぎて布を傷めてしまい、最後は破いてしまった。それがお文の湯文字だったので、逆鱗に触れた。
 夕餉(ゆうげ)のお菜(かず)を作れば、味が滅茶苦茶だった。甘い、しょっぱい、辛い、全ての味が入っており、どの味も融合することなくそれぞれ自己主張している。とても食べられた代物ではなく、鶴松の店で夕餉を取り、事なきを得た。
 三月(みつき)ばかり狂乱のような日々が続いた。

「あら、お文さん。顔色が悪いけど、具合でも悪いの?」
 豊かな黒髪を、使い慣れた柘植(つげ)の櫛(くし)で梳(くしけず)るお文に、お竹が気遣うように声をかけた。
 久(きゅ)右(う)衛門(えもん)町(ちょう)にある醤油・酢問屋「横田屋」の女将だ。四十路(よそじ)を過ぎているが、艶のある黒髪のせいか、年齢より若く見える。明るく話し好きなところも若々しさに作用しているのかもしれない。
「え、そうですか? 具合は悪くないんですけどね……」
「そう? すごく疲れているように見えるけど」
「疲れてはぁ……いるかも。ここのところ、よく眠れなくて」
「まぁ大変。眠れないなんてよっぽどの悩みがあるんじゃない? 大丈夫?」
「大丈夫ですよ。ただ疲れ過ぎてるだけで」
お文はお竹の髪を元結(もっとい)で結びながら、無理やり笑顔を作った。
隣のお凛は、お竹の娘のお百合の髪を結いながら、心配そうにチラリと視線を投げてよこした。
「そうだ。疲れた体には、やっぱり甘いものが一番よ。両国橋の広小路に、おいしいお団子を出す茶店があるから、帰りにお凛ちゃんと寄ってみて。すっごく、おいしいお団子だから。この前、私もお百合とおきぬと一緒に行ってみたけどおいしかったよぉ。ねっ、お百合」
お竹はお百合に話しかけた。
「えぇ、とっても。ふふ、おきぬさんなんて、うふふ」
 いつもは人見知りで大人しいお百合が、珍しく思い出し笑いをしている。
「おきぬさんがどうしたの?」
お百合の笑いにつられるように、笑顔になりながらお凛が訊ねた。
「あまりにもお団子がおいしくて、一人で二十本食べちゃったんです。ふふふ。お店の人も、眼を丸くしちゃって。あはは」
「え、二十本も。それはすごいね」
お凛は驚きながらも手を休めず、丸く結った髷(まげ)に、鹿の子絞りの手絡(てがら)をかける。
「タレが何とも言えない味でねぇ。醤油と味噌と砂糖を混ぜたタレらしいけど、しょっぱいのと甘いのが絶妙に混ざり合ってるのよ。ぜひ、食べてみて」
お竹は団子の味を思い出しのたか、うっとりした口調で言った。
「そんなにおすすめなら、帰りに食べてってみようか、お凛」
お文はお凛に話しかけながら、お竹の髪に笄(こうがい)を差した。    部屋には伽羅油(きゃらあぶら)の甘い香りが、ふんわり漂っていた。

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