はるこちゃん 短篇

ボクは肺いっぱいに空気を吸い込んだ。

夏のむわっとした蒸し暑い空気と共に
川べりから立ちのぼる水の匂いが鼻の奥をくすぐる。

ボクは街にあふれる匂いが好きだ。


雨が降る前の土の匂い。
まだ寒い空気の中で、ふんわり香る梅の香り。
学校のプールの匂い。
黄金色の風景の中から香ってくる金木犀の匂い。
湧き水のように澄んだ冬の匂い。

どの匂いも街が生きてるって感じる。

夕方。

この時間帯から香ってくるのは
どこかの家からただよってくるカレーの匂い。


‟幸せ”を感じられる匂いだってボクは感じている。


でも、ボクがいっちばん‟幸せ”を
感じられるのは
『春子ちゃん』から香る匂いだった。


春子ちゃんの匂いは
石鹸とアイスみたいな甘い匂い
そして、ほんの少しのタバコの香り。


春子ちゃんはボクが住む部屋の隣に住んでいた。

いや。
今でも、春子ちゃんはあの部屋に住んでいる。


「よし!」

ボクはお腹に力を入れると、アパートに向かって歩き出した。
かつてボクが住んでいた懐かしいあの場所へ。


今日は、勇気を出して
春子ちゃんにボクの気持ちを伝えるんだ。

    * * * *


ボクが10才の時に、お父さんとお母さんは離婚した。


お母さんと一緒に東京へ出てきたボクは
小名木川の近くにあるアパートで暮らし始めた。


お母さんは昼も夜も働きっぱなしだったから
家にいる時間はほんの少しだけ。

ボクそれが寂しくてたまらなかった。

けど…お母さんには口が裂けても「寂しい」なんて言えなかった。

そんなこと言っても
お母さんを悲しい気持ちにさせるだけだから。


誰もいない部屋に帰るのが嫌で
学校からの帰り道は、外が真っ暗になるまで
高橋の上から川の流れを見ていた。


水は何があっても流れていく。

その力強い姿を見ていると、ちょっぴり勇気をもらえた。

月曜日の夕方。

いつもみたいに川の流れを見ていたら、声をかけられた。


「博太郎くん」

聞き覚えのある声だった。

少しかすれていて、耳に入ってくると気持ちいい低めの声。
ボクの大好きな声。


声のする方へ顔を向けると
春子ちゃんが笑顔で立っていた。


春子ちゃんは黙っていると
ツンとした雰囲気で、気高い猫みたいな顔をしている。

鼻もツンと高い。

でも、笑うと前歯がちょっと大きくて
ビーバーみたいですっごくかわいい。

ボクは、ツンとした猫っぽい春子ちゃんも
ニカッと笑ったビーバーっぽい春子ちゃんも
どっちも大好きなんだ。


お母さんと一緒に、アパートに住む人たちのところへ
引っ越しの挨拶に行った時
いっぺんで春子ちゃんに恋してしまった。

春子ちゃんをひと目見た時
なぜか懐かしいような気がした。

そして、全速力で走った後みたいに心臓がドキドキしたんだ。
ちょっと痛いくらいドキドキして、息が苦しくなった。

でも、全然イヤな感じがしない痛みと苦しさだった。
だから、これが恋ってやつだと思った。


「学校の帰り?」

春子ちゃんはボクの隣に立つと
ボクの眼を覗き込むようにして言った。

アーモンドの形をした眼に見つめられると
吸い込まれそうな気分になって、ちょっとドキドキしてしまう。


どこからか5時をつげるチャイムの音がした。

「お家に帰らないの?」
「……」

ひとりで部屋にいるのが寂しいだなんて
春子ちゃんには恥ずかしくて絶対言えない。

男のコケンにかかわるもの。


ボクは答えに困ってうつむいた。


「ねえ、あたしの部屋に来ない?」

春子ちゃんの思いがけない言葉に驚いて
思わず顔をあげると

ニカッと笑った顔が眼の中にとびこんできた。

やっぱりビーバーみたいでかわいい。

ボクは、春子ちゃんの笑顔に見とれながら
コクリとうなずいた。

お母さんに『となりのはるこちゃんの家にいます』と書き置きして
春子ちゃんの部屋へ行った。

春子ちゃんの部屋はボクんちと同じ間取りのはずなのに
何だか違う部屋に見えた。

どうしてだろう?

その日、カレーを作ってもらって二人で食べた。

カレーなんてお母さんがよく作るし、給食でも出るから
食べ飽きてるはずなのに

春子ちゃんが作ってくれたカレーは
生まれて初めて食べたみたいにすごくおいしかった。

世界一おいしい食べ物だと思った。

どうしてだろう?


カレーを食べ終えたら
2人で一緒にお皿を洗って、宿題を教えてもらった。


ボクは算数が苦手だけど
春子ちゃんが教えてくれる算数はスルスルと頭に入って来て
とってもわかりやすかった。


お陰で
いつもより、ずっと早く宿題が終わった。


ボクが筆箱に鉛筆と消しゴムを片付けていると
春子ちゃんはタバコに火をつけた。


「春子ちゃんが先生なら、ボクも算数が好きになったのにな」

そう言うと

「あたしね、ホントは学校の先生になりたかったんだよ」

タバコの煙と一緒に、驚くことを言った。
煙はバニラアイスみたいな甘い香りがした。


「え?どうしてならなかったの?」


春子ちゃんが先生になってくれたら
ボク以外の算数が苦手な子たちも、きっと好きになれるのに。

本気でそう思った。


タバコの煙を唇の端から静かに吐き出すと

「あたし…ザイニチだからね」

口の形は笑っているように見えるけど
悲しそうな眼をして言った。

青白いタバコの煙が
ユラユラと天井へのぼっていった。


ザイニチって何?

訊いてみたかったけど、春子ちゃんの笑い顔は
いつものビーバーみたいな顔じゃなくて
まるで泣いているみたいな顔だったから、何も言えなくなってしまった。


「コレ、あげる」

ボクはとっさに、スーパーマリオの鉛筆を1本取り出して
春子ちゃんに渡した。


「コレ、博太郎くんの大切なものじゃないの?」

春子ちゃんは驚いたように眼を大きくしてボクを見た。
驚いた時の眼は、子猫みたいでかわいいなと思った。


「ちがうよ」

本当は宝物だった。
使うと小さくなっちゃうからあまり使えないほどだ。

でも、春子ちゃんが元気になってくれるなら
別にいいやって思った。

春子ちゃんは鉛筆をギュッとにぎりしめて涙をふいた。


「ありがとう」

春子ちゃんの眼はまだ涙でウルウルしていたけど、ニカッて笑った。

今度は、ボクの大好きなビーバーの顔だった。

春子ちゃんが笑ってくれたから
ボクもうれしくなってニカッて笑った。

その日以来、学校が終わると
ボクは毎日、春子ちゃんの部屋でお母さんの帰りを待った。

夕ご飯を一緒に食べて
宿題を教えてもらって

トランプで遊んだり

オセロをしたり

テレビを一緒に観て大笑いしたり―。


ボクはあの頃、人生で一番幸せな時間を過ごした。
6年生になるまでは。

      * * * *


ボクが6年生になった時、お母さんが倒れた。

お医者さんは「過労」って言ってた。
働きすぎて、お母さんの身体が悲鳴をあげてしまったらしい。


ボクは児童養護施設に入ることになった。

お母さんと一緒に暮らせなくなるのはすごく悲しかった。

でも…春子ちゃんの部屋へ行けなくなることは
もっと悲しかった。


施設に入る日の朝
春子ちゃんにお別れの挨拶をした。

もう会えないと思うと、悲しくて
春子ちゃんの顔を見ることができなかった。

ボクは自分の靴の先を見つめていた。

あまり長くしゃべったら、泣いてしまいそうだから
「さよなら」しか言えなかった。


本当はもっとたくさん話したかったのに。
ちゃんと「ありがとう」って伝えたかったのに。

「博太郎くん、コレ」

手渡されたのは少し重みのある銀色のシャープペンだった。
急に大人になったような気がした。


「元気でね」

春子ちゃんの声が震えていた。

思わず顔をあげると、春子ちゃんは
顔をクシャクシャにして涙を流していた。

その顔を見たら
ボクは「本当は行きたくないよ」って言いながら
春子ちゃんにしがみついて、ワーワー声をあげて泣きたくなった。


施設の人が「そろそろ」と声をかけてこなかったら
たぶん、そうしてしまっていたかもしれない。


施設の人に手を引かれて
なんとか春子ちゃんの側から離れた。


車が走り出してから後ろを振り返ると
春子ちゃんは、その場にずっと立っていた。

どんどん小さくなる春子ちゃんを見つめながら
ボクは声を出さないように泣いた。

        * * * *


春子ちゃんの部屋の前に立つと、さすがに緊張してきた。
ボクのことわかるだろうか。


急に心配になってきたけど、今日しかチャンスがない。
迷ってる時間はないのだ。


思い切ってインターホンのボタンを押した。
指が少し震えた。


「はい」

懐かしい声がインターホン越しに聴こえた。


「あの、ボク、えっと…博太郎です」
「え?!」

ドアが開いた。


ドアの向こうには
アーモンドの形の眼を、大きく開いた春子ちゃんが立っていた。
懐かしくて涙が出そうになった。
驚いた顔は、やっぱり小猫みたいでかわいかった。


「はく……たろう……くん……?」
「久しぶり」

ボクは少し笑いながら言った。

「本当に、博太郎くん……?」

春子ちゃんはまだ眼を大きくしている。
ボクが博太郎って、まだ信じられない様子だった。

しょうがないよな、と思った。
あの「さよなら」をした日から、ずいぶん時間が経っている。


「うん」
「でも……」
「春子ちゃん、ちょっと外へ行かない?話しがしたいんだ」

ボクは春子ちゃんの手を引っ張って、外へと連れ出した。

そのまま、手をつないで小名木川まで歩いて行った。
春子ちゃんの手は、柔らかだった。


高橋の脇の階段を下りて、川岸の遊歩道まで来ると
ベンチに座った。
ボクは、やっと春子ちゃんの手を離した。
本当はずっとつないでいたかった。

太陽が、だいぶ西に沈んでいて川面をオレンジ色に染めていた。


「ボクね、死んじゃったんだ」

春子ちゃんの顔を見つめながら言った。
春子ちゃんは黙ってボクの顔を見つめ返した。

あの頃と同じように、吸い込まれそうな眼だ。


「……いつ?」

春子ちゃんはしばらくボクの顔を見つめた後、小さい声で訊いた。

「施設に入って3ヶ月ぐらいしてから」
「……どうして?」
「道に飛び出して、車に轢かれちゃった」

ボクは、わざと明るい声を出した。

ボクは、施設に入っても
周りの子たちと仲良くなれなかった。

誰とも話しをしたくなかった。

黙っているボクにイラつくのか
施設の子たちは、いちいち突っかかってきた。

それも無視していたら、ある日

体が大きくてボスみたいな奴が、ボクの持っていたシャープペンを取り上げた。

春子ちゃんからもらった、大切な宝物のシャープペンを。


怒った僕は、そいつに殴りかかった。

もちろんボコボコに殴り返された。
さらにそいつは、シャープペンを窓の外へ放り投げた。

シャープペンは車道へ転がっていった。

焦ったボクは、周りを見もせず車道へ飛び出した。
そこで車に轢かれたのだ。


「でも、博太郎くんと別れたのは30年も前なのに」

そう。
ボクが死んでから30年経っていた。
でもボクの姿は12才のままだ。

今まで春子ちゃんとお母さんを見守ってきた。
でも、そろそろ成仏しなきゃいけなくなってしまった。


「春子ちゃんにお礼を言いたくて会いに来たよ」


お母さんは、ボクが死んだ後しばらくして再婚した。

今は赤ちゃんも産まれて、幸せそうだった。
もう、ボクがいなくてもお母さんは大丈夫だと思えた。

春子ちゃんにはどうしても「ありがとう」を伝えたいと思った。

ボクは立ち上がって、春子ちゃんの眼の前に立った。
春子ちゃんの顔は、ボクの胸のあたりにある。

「あの時、ボクに優しくしてくれてありがとう」


そう言って、春子ちゃんの頭ごと抱きしめた。


「博太郎くんは、今、ここにいて触れられるのに……」

春子ちゃんは声を震わせながら
ボクの背中に腕を回した。


「今日だけ特別なんだって」

ボクの胸が春子ちゃんの涙で濡れていた。

「春子ちゃんはボクが初めて好きになった人だよ」
「……こんなおばちゃんになっちゃったから」
「今も昔と変わらないよ。春子ちゃんはずっとかわいい」
「……ありがとう」
「あの頃から今でも、春子ちゃんから元気をもらってるよ」
「あたしも。博太郎くんに支えてもらっていたのよ」


ボクは腕に少し力を入れた。

春子ちゃんからは

石鹸のいい香りとバニラアイスと、ほんの少しのタバコの香りがした。

「会えなくなっても、ボクはずぅっと見守ってるから」

春子ちゃんは泣きながら何度も
うなずいていた。

「春子ちゃん、幸せになってね」

ボクは春子ちゃんの顔を両手で包んで
瞳を覗き込みながらニカッと笑った。


春子ちゃんもグシャグシャに濡れた顔で
ニカッとした笑顔を返してくれた。

「博太郎くん、会いに来てくれてありがとう」

やっぱり
笑顔がビーバーみたいでかわいいなと思った。

      * * * *


魂は、上がったり下がったりする波のように
くっついたり離れたりを繰り返す。


きっとまたいつかどこかで会える。

さよなら、春子ちゃん。
どうか、どうか、幸せに生きていってね。

ボクはだんだん遠くなっていく意識の中で
春子ちゃんの幸せだけを祈り続けていた。


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